青園雅紘
あおぞの まさひろ 青園 雅紘 | |
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生誕 |
1944年9月26日(80歳) 福井県 |
出身校 | 滋賀大学経済学部 |
職業 | 実業家 |
青園 雅紘(あおぞの まさひろ、1944年9月26日 - )は、日本の実業家。CSKの元会長。
来歴
[編集]福井県出身。1968年に滋賀大学経済学部を卒業。同年野村證券へ入社し、1987年取締役、1989年野村投資顧問(現野村アセットマネジメント)常務取締役、1991年野村證券常務取締役を歴任。1995年に大川功にスカウトされCSK代表取締役副社長となり、2000年代表取締役社長、2003年代表取締役会長。2004年から取締役グループ経営会議議長、2005年から取締役会議長を務める。2003年に持分法適用会社のセガ株式を売却後、翌年コスモ証券を子会社化し、2008年にコスモ証券取締役社長を一時兼任[1]。2009年2月CSKホールディングス取締役に降格、同年3月退任[2][3]した。
人物・評価
[編集]青園の人物と経営手腕を評するものとして、日下淳の以下の文章を引用する。
青園氏は豪胆な性格で知られ、そこに大川氏が目をつけてスカウト。95年野村證券常務を最後にCSK副社長に移った。社長に就任するのは2000年6月。翌年の01年3月、大川氏が亡くなり、血を血で洗うような権力闘争に突き進む。青園氏のCSKでの歩みは抗争の歴史であった。(中略)権力を握った青園氏は、大川氏時代にグループ入りした企業群を切り離した。消費者を対象にした事業はグループから外し、企業間取引に事業を集中するというのが、その理由だ。これを大川路線の否定と受け取ったグループ会社の経営者や幹部社員は猛反発。大川氏は創業者としてのカリスマ性で求心力を維持できたが、スカウトされてトップに就いた青園氏は資本の論理で迫ったから、社内は一触即発の危機的状況に至った。 — CSKのドン・青園雅紘会長が引責辞任(下)[4]
年譜
[編集]- 1944年 - 福井県生まれ
- 1968年 - 滋賀大学経済学部卒業
- 1968年 - 野村證券入社
- 1987年 - 野村證券取締役
- 1989年 - 野村投資顧問常務取締役
- 1991年 - 野村證券常務取締役
- 1995年 - CSK代表取締役副社長
- 2000年 - CSK代表取締役社長
- 2003年 - CSK代表取締役会長
- 2004年 - CSK取締役グループ経営会議議長
- 2005年 - CSK取締役会議長
- 2008年 - コスモ証券取締役社長兼任
- 2009年 - CSK取締役。同年3月辞任。