雨森菊太郎
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雨森 菊太郎(あめもり きくたろう、1858年10月13日(安政5年9月7日[1]) - 1920年(大正9年)5月4日)は、明治・大正期に活躍した政治家、実業家。京都府(山城国)生まれ。号は蝶夢居士。
旧姓は岩垣。三歳のときに雨森善四朗の養子となった。1884年(明治17年)より京都府会議員を務め、1889年(明治22年)に京都美術協会幹事に就任した。同年に京都市会議員となり、1893年(明治26年)には議長に選出された。1895年(明治28年)、京都での第4回内国勧業博覧会開催にあたって評議員・審査官として尽力した。1898年(明治31年)衆議院総選挙に初当選を果たし、三期務めた(中正倶楽部)。日出新聞(現・京都新聞)社長、京都府農工銀行頭取を歴任。衆議院議員時代には、中川小十郎が設立した京都法政学校(現・立命館大学)設立賛助員として同校の設立を後援した。
なお、雨森が設立賛助員を務めた京都法政学校開校の地(上京区東三本木仲ノ町)は、雨森家の隣地だった。
年譜
[編集]- 1858年(安政5年)9月7日 岩垣六蔵の次男として生まれる。
- 1877年(明治10年) 京都府等外一等出仕
- 1883年(明治16年) 京都滋賀新報社(中外電報)に入社。
- 1884年(明治17年) 京都府会議員に当選。
- 1889年(明治22年) 京都市会議員に当選。
- 1890年(明治23年) 府会議長に就任(1892年3月まで)
- 1898年(明治31年) 第五回総選挙で衆議院議員に当選。
- 1915年(大正4年) 京都府教育会副会長に就任。市教育界副会長、私立高等女学校評議員、京都独逸学会理事を兼任。