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雑賀重義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
雑賀 重義
時代 江戸時代前期
生誕 寛永11年4月4日1634年5月1日
死没 寛文8年9月6日1668年10月11日[1]
改名 仙千代、武蔵(幼名)→重義
別名 通称:孫三郎、孫市(孫一)
戒名 仁心院釈義光居士[2]、釈貞寿[3]
墓所 浄光寺
主君 徳川光圀
常陸水戸藩
氏族 水戸徳川家→雑賀氏(雑賀党鈴木氏
父母 父:徳川頼房、母:昭玄娘・耶々
養父:雑賀(鈴木)重次
兄弟 松平頼重、通子、亀丸、万、棄、大姫徳川光圀、菊、小良松平頼元
松平頼隆松平頼利松平頼雄
松平頼泰松平頼以、利津、松平房時、布里、重義、犬、千、竹、梅、市、松、那阿
養兄弟:
雑賀重次娘
養子:重春
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雑賀 重義(さいか しげよし)は、江戸時代前期の水戸藩士水戸藩初代藩主徳川頼房の十一男で、徳川光圀の異母弟にあたる。紀州雑賀衆の裔である鈴木姓雑賀氏を相続した。

略歴

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寛永11年(1634年)誕生[2]。母は興正寺門主准尊の長女・耶々(石山本願寺顕如の曾孫)。幼名は仙千代[4](千千代[3])、武蔵[3][4]。養子になった後は通称を孫三郎[3]、孫市[1][3](孫一[4])。

雑賀衆の裔である鈴木重朝徳川頼房に仕え、子の重次が跡を継いだが[5][2]、重次には男子がなく、重義が婿養子となった[2]寛文4年(1664年)、重次が死去したため家督を相続した。禄高は3千石、大番頭に准じられた。寛文7年(1667年)、大番頭となり、与力を付けられる。寛文8年(1667年)3月、徳川光圀の江戸参府に従って上京し、4代将軍・家綱に拝謁する。9月、35歳で死去した[2]。墓は養父・重次と同じく浄光寺(ひたちなか市館山[6])にある[2]

雑賀家は重義の代までは禄高3千石の家老格であったが、重義の跡を継いだ養子・重春鈴木重朝の次男・重信の孫[7][注釈 1])が幼少であったことや、家人の不行跡により、禄高は600石となった。以後も重臣層として、明治維新に至る。

脚注

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注釈

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  1. ^ 重春は重信の子である重井の長男[8]。重井の跡は別の子が継ぎ、雑賀家の分家である鈴木家は幕末まで続いた[8]

出典

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  1. ^ a b 徳川光圀 撰; 川崎三郎 訳註; 建国記念事業協会 編『訳註大日本史 十二』建国記念事業協会、1941年、22頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920648/27 
  2. ^ a b c d e f 神坂次郎「孫市追跡」『紀州史散策 第四集』有馬書店、1981年、52–53頁。全国書誌番号:82043516 
  3. ^ a b c d e 千葉新治 編「桃源遺事」『義公叢書』早川活版所、1909年、42頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781759/36 有馬祐政; 鳥野幸次 編「桃源遺事」『賢哲伝 上』修養文庫刊行会〈修養文庫 第一編〉、1919年、102頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980634/72 
  4. ^ a b c 茨城県史編さん近世史第1部会 編「常陸水戸徳川家譜」『茨城県史料 近世政治編 I』茨城県、1970年、34頁。全国書誌番号:73016007 
  5. ^ 鈴木 1984, pp. 203–214.
  6. ^ 浄光寺”. 親鸞聖人を訪ねて. 真宗教団連合. 2023年12月12日閲覧。
  7. ^ 鈴木 1984, pp. 247–248.
  8. ^ a b 鈴木 1984, p. 248.

参考文献

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