雑賀重義
表示
時代 | 江戸時代前期 |
---|---|
生誕 | 寛永11年4月4日(1634年5月1日) |
死没 | 寛文8年9月6日(1668年10月11日)[1] |
改名 | 仙千代、武蔵(幼名)→重義 |
別名 | 通称:孫三郎、孫市(孫一) |
戒名 | 仁心院釈義光居士[2]、釈貞寿[3] |
墓所 | 浄光寺 |
主君 | 徳川光圀 |
藩 | 常陸水戸藩 |
氏族 | 水戸徳川家→雑賀氏(雑賀党鈴木氏) |
父母 |
父:徳川頼房、母:昭玄娘・耶々 養父:雑賀(鈴木)重次 |
兄弟 |
松平頼重、通子、亀丸、万、棄、大姫、徳川光圀、菊、小良、松平頼元、 松平頼隆、松平頼利、松平頼雄、 松平頼泰、松平頼以、利津、松平房時、布里、重義、犬、千、竹、梅、市、松、那阿 養兄弟:虎 |
妻 | 雑賀重次娘 |
子 | 養子:重春 |
雑賀 重義(さいか しげよし)は、江戸時代前期の水戸藩士。水戸藩初代藩主徳川頼房の十一男で、徳川光圀の異母弟にあたる。紀州雑賀衆の裔である鈴木姓雑賀氏を相続した。
略歴
[編集]寛永11年(1634年)誕生[2]。母は興正寺門主准尊の長女・耶々(石山本願寺顕如の曾孫)。幼名は仙千代[4](千千代[3])、武蔵[3][4]。養子になった後は通称を孫三郎[3]、孫市[1][3](孫一[4])。
雑賀衆の裔である鈴木重朝は徳川頼房に仕え、子の重次が跡を継いだが[5][2]、重次には男子がなく、重義が婿養子となった[2]。寛文4年(1664年)、重次が死去したため家督を相続した。禄高は3千石、大番頭に准じられた。寛文7年(1667年)、大番頭となり、与力を付けられる。寛文8年(1667年)3月、徳川光圀の江戸参府に従って上京し、4代将軍・家綱に拝謁する。9月、35歳で死去した[2]。墓は養父・重次と同じく浄光寺(ひたちなか市館山[6])にある[2]。
雑賀家は重義の代までは禄高3千石の家老格であったが、重義の跡を継いだ養子・重春(鈴木重朝の次男・重信の孫[7][注釈 1])が幼少であったことや、家人の不行跡により、禄高は600石となった。以後も重臣層として、明治維新に至る。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b 徳川光圀 撰; 川崎三郎 訳註; 建国記念事業協会 編『訳註大日本史 十二』建国記念事業協会、1941年、22頁 。
- ^ a b c d e f 神坂次郎「孫市追跡」『紀州史散策 第四集』有馬書店、1981年、52–53頁。全国書誌番号:82043516。
- ^ a b c d e 千葉新治 編「桃源遺事」『義公叢書』早川活版所、1909年、42頁 。有馬祐政; 鳥野幸次 編「桃源遺事」『賢哲伝 上』修養文庫刊行会〈修養文庫 第一編〉、1919年、102頁 。
- ^ a b c 茨城県史編さん近世史第1部会 編「常陸水戸徳川家譜」『茨城県史料 近世政治編 I』茨城県、1970年、34頁。全国書誌番号:73016007。
- ^ 鈴木 1984, pp. 203–214.
- ^ “浄光寺”. 親鸞聖人を訪ねて. 真宗教団連合. 2023年12月12日閲覧。
- ^ 鈴木 1984, pp. 247–248.
- ^ a b 鈴木 1984, p. 248.