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陳俊 (明)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

陳 俊(ちん しゅん、1419年 - 1488年)は、明代官僚は時英。本貫興化府莆田県

生涯

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陳珪の子として生まれた。1447年正統12年)、郷試に首席で及第し、解元となった。1448年(正統13年)、進士に及第した。1449年(正統14年)、戸部主事に任じられた。1454年景泰5年)、天津諸衛の軍を監督して薬草を採取させた。ときに狡猾な者が蘇州松江の折納銀70万両あまりを改鋳して侵奪していた。陳俊が監督に赴くと、月をまたがないうちに銀の輸送を終えた。戸部尚書の金濂がその有能を認めて、諸曹の上奏文作成をつかさどらせた。1459年天順3年)、戸部員外郎となった。1460年(天順4年)春、礼部会試の試験官をつとめた。ほどなく戸部郎中に進んだ。

1461年(天順5年)、両広の瑤族の反乱鎮圧に兵が用いられると、陳俊は食糧輸送を監督した。ときに両広の州県は荒廃して、官倉は空になっていたことから、陳俊は塩商の越境規制を緩めて、米2斗を余分に輸送させ、窮乏していた者に配給させた。母が死去すると、陳俊はその服喪のため帰郷を求めたが、英宗に許可されず、反乱が鎮圧されてようやく帰郷できた。

1465年成化元年)、陳俊は南京太常寺少卿に抜擢された。1468年(成化4年)、北京に召還されて、戸部右侍郎に任じられた。四方で災害の被害が発生し、辺境の諸鎮は緊急に飼料や食糧の輸送を求めた。地方からの奏請が到着すると、陳俊の裁決はみな妥当なものであり、戸部尚書の楊鼎は深く陳俊を信任した。1471年(成化7年)、北京で飢饉が発生すると、陳俊は太倉を開いて粟80万石を放出し、食糧価格を引き下げた。1石あたりの価格が6銭まで下がり、狡猾な者が買い占めにより利益を得ようともくろんだ。陳俊は食糧の買い入れ量を1升1斗の単位に制限して、これを防いだ。オルドスへの出兵が議論されると、陳俊は命を受けて河南山西陝西に赴き、巡撫諸臣と合流し、飼料や食糧の輸送を計画し、官庫の金20万を出して輸送を助けた。楡林の道が険しく遠く、輸送に困難を来たしていたことから、陳俊は内地の市易で金を調達し、西安韓城同官の小道を修復して、食糧の輸送を潤滑にさせた。北京に帰ると、俸一級を進められた。1473年(成化9年)、吏部右侍郎に転じた。1475年(成化11年)、吏部左侍郎に進んだ。

1477年(成化13年)、陳俊は南京戸部尚書に任じられた。1479年(成化15年)[1]、南京兵部尚書に転じ、機密に参与した。1484年(成化20年)、南京吏部尚書に転じた。1485年(成化21年)、天文に異変[2]が起こると、陳俊は九卿を率いて時弊二十事を上奏した。成化帝はその多くを採用した。1486年(成化22年)、陳俊は致仕を願い出て許された。太子少保の位を加えられた。1488年弘治元年)2月29日、死去した。享年は70。は康懿といった。

脚注

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  1. ^ 談遷国榷』巻38
  2. ^ 明史』天文志三によると、成化21年1月1日の申刻、流星の火光が中天から西に下り落ち、白気と化し、再び軌道を変え音声を上げて高く昇っていったという。

参考文献

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  • 『明史』巻157 列伝第45
  • 陳康懿公尚書神道碑(彭韶『彭恵安集』巻5所収)
  • 吏部尚書康懿陳公墓誌銘(徐紘『明名臣琬琰録』巻18所収)