阿魯
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阿魯(アル、1088年 - 1150年)は、金の皇族。漢名は宗本。第2代皇帝の太宗呉乞買の子。
経歴
[編集]皇統9年(1149年)に右丞相兼中書令となり、兄の政敵であった斡本(宗幹)の次男である平章政事(宰相格)の迪古乃(海陵王)が従兄の熙宗を殺害して自ら即位すると、太保・太傅までに昇進し、また三省の総理を兼ねたという。
しかし、海陵王は太宗呉乞買の諸子に遺恨を抱き、熙宗の治世で権勢を振るっていたことから阿魯には特に強い敵対意識を抱いていた。このため、腹心である秘書監の蕭裕と、太宗の諸子を粛清するための謀略を練った。まず、阿魯と親しかった尚書令史の蕭玉に阿魯と左丞相・蕭王乙卒(完顔秉徳、粘没喝の孫)らを誣告させ、これを投獄した。甥の烏帯もまた、乙卒を誣告した。
天徳2年(1150年)、海陵王は阿魯の謀反を名目として、阿魯や乙卒をはじめ皇族の有力者を処刑し、市場で晒し首にした。同時に尚書左丞相の唐括弁や判大宗正府事の胡里甲(完顔宗美)・東京留守の阿隣(完顔宗懿)・北京留守の吾母(完顔卞)など太宗の子孫70人・粘没喝(完顔宗翰)の子孫30人・諸宗室50人がまとめて殺された。烏帯はその報酬として乙卒の娘を与えられたという。ところが、烏帯の妻の唐括定哥が、海陵王と秘かに密通していた。そのため、烏帯は職務怠慢の理由で崇義軍節度使に降格され、左遷された。やがて烏帯は妻の裏切りに遭って、天徳4年(1152年)に勅命で殺害された。
こうして、太宗の子孫70余人が海陵王によってまとめて殺害され、太宗の血筋は途絶えてしまったといわれる[1]。
宗室
[編集]女子
[編集]- 寿陽県主 莎里古真(海陵王に奪取された)
- 余都(海陵王に奪取された)
兄弟
[編集]甥
[編集]- 烏帯 - 阿魯補の子
関連系図
[編集](追)昭祖 石魯(シル) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(追)景祖 烏古廼(ウクナイ) | 烏骨出(ウクチュ) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
劾者(ヘテェ) | (追)世祖 劾里鉢(ヘリンボ) | 劾孫(ヘスン) | (追)粛宗 頗剌淑(ポラシェ) | 阿離合懣 | (追)穆宗 盈歌(インコ) | 習不失 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
撒改(サガイ) | (追)康宗 烏雅束(ウヤス) | (1)太祖 阿骨打(アクダ) 完顔旻 | (2)太宗 呉乞買(ウキマイ) 完顔晟 | 斜也(シエ) 完顔杲 | 撻懶(ダラン) 完顔昌 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
粘没喝(ネメガ) 完顔宗翰 | 謀良虎 完顔宗雄 | (追)徳宗 斡本(オベン) 完顔宗幹 | 斡離不(オリブ) 完顔宗望 | (追)徽宗 繩果(ジェンガ) 完顔宗峻 | 斡啜(オジュ) 完顔宗弼 | (追)睿宗 訛里朶(オリド) 完顏宗輔 | 訛魯観(オルゴン) 完顔宗雋 | 蒲魯虎(ブルフ) 完顔宗磐 | 阿魯補 完顔宗偉 | 阿魯(アル) 完顔宗本 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
設野馬 | (4)海陵王 迪古乃(テクナイ) 完顔亮 | (3)熙宗 合剌(ホラ) 完顔亶 | (5)世宗 烏禄(ウル) 完顔雍 | 烏帯(ウタイ) 完顔宗言 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
乙卒 完顔秉徳 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ 実際は、唐括定哥を后妃に迎える都合で、烏帯の一族が族誅を免れたため、世宗の代まで続いているのが確認できる。
参考文献
[編集]『金史』(巻七十六 列伝第十四)
- 宗本本名阿魯。皇統九年,為右丞相兼中書令,進太保,鄰三省事。海陵簒立,進太傅,領三省事。
- 初,宗幹謀誅宗磐,故海陵心忌太宗諸子。熙宗時,海陵私議宗本等勢強,主上不宜優寵太甚。及簒立,猜忌益深,遂與秘書監蕭裕謀殺太宗諸子。誣以秉德出領行台,與宗本別,因會飲,約内外相應。使尚書省令史蕭玉告宗本親謂玉言:「以汝於我故舊,必無它意,可布腹心事。鄰省臨行,言彼在外諭説軍民,無以外患為慮。若太傅為内應,何事不成。」又云:「長子鎖里虎當大貴,因是不令見主上。」宗本又言:「左丞相于我及我妃處,稱主上近日見之輒不喜,故心常恐懼,若太傅一日得大位,此心方安。」唐括辯謂宗本言:「内侍張彦善相,相太傅有天子分。」宗本答曰:「宗本有兄東京留守在,宗本何能為是。」時宗美言「太傅正是太宗主家子,祇太傅便合為北京留守。」卞臨行與宗本言「事不可遲」。宗本與玉言「大計只於日近圍場内予決」。宗本因以馬一匹、袍一領與玉,充表識物。玉恐圍場日近,身縻於外,不能親奏,遂以告秘書監蕭裕。裕具以聞。