阿曇大浜
時代 | 古墳時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 海人宰 |
主君 | 神功皇后、応神天皇 |
氏族 | 阿曇連祖 |
阿曇 大浜(あずみ の おおはま、生没年未詳)は、『日本書紀』などに伝わる古代日本の豪族。『古事記』には彼に関する記載は存在しない。
出自
[編集]発祥の地は『和名類聚抄』によると、筑前国糟屋郡志珂郷から阿曇郷にかけての一帯(現在の福岡市東区志賀島から糟屋郡新宮町)といわれており、大和政権に帰属した段階で、摂津国に拠点を移している。
『古事記』・『日本書紀』の伊邪那岐命の黃泉の国から帰った禊ぎの場面で生まれた綿津見神の神を始祖としている(『日本書紀』一書には伊弉冉神が出産したとなっている)。『新撰姓氏録』には、「海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也」と記されている。
記録
[編集]処処(ところどころ)の海人(あま)、訕哤(さばめ)きて命(みこと)に従(したが)はず。則(すなは)ち阿曇連(あづみの)むらじの祖(おや)大浜宿禰を(おおはま の すくね)遣(つかは)して、其の訕哤(さばめき)を平(たひら)ぐ。因(よ)りて海人(あま)の宰(みこともち)とす。故(かれ)、俗人(ときのひと)の諺(ことわざ)に曰(い)はく、「佐麼阿摩」(さばあま)といふは、其(そ)れ是(こ)の縁(ことのもと)なり。[1] (各地の漁民が騷(さばめ)いて、命に従わなかった。阿曇連の先祖大浜の宿禰を遣わして、その騒ぎを平定された。それで漁民の統率者とされた。時の人の諺に「佐麼阿摩」(さばあま)というのはこれがもとである)訳:宇治谷孟
とある。
その後、応神天皇5年8月13日に、諸国に命令して、海人部と山守部を定めた、とある[2]。『古事記』にも、同様の記述がある[3]。
これは、阿曇氏が海部の伴造となった由来を説明したものであり、阿曇氏の海人の統率者としての立場が公的に認められたことを示している。
さらに、「さばめく」という表現であるが、「上をそしり、訳の分からぬことばを放つ」という意味であって、『肥前国風土記』の、
この島(値嘉の島)の白水郎(あま)は容貌(かたち)、隼人に似て、恒に騎射(うまゆみ)を好み、その言語俗人(よのひと)に異なり[4]。
とあるのとも対応している。これは、漁業と航海に従事する海辺の民である「海人」の言語が、支配者層とは異なる異民族のものであったことを示しているのではないか、と黛弘道は述べている。
また『筑前国風土記』逸文には、「糟屋の郡、資珂の嶋」に関する以下の物語がある。気長足姫尊(おきながたらしひめ の みこと、神功皇后)が新羅へ向かった際に、船で夜に停泊し、陪臣の小浜に勅令を出して、火を探し求めさせた際に、早くに手に入れられたので戻って来た。それを同じ従者の大浜が、「近くに家があるのか」と尋ねたところ、「この島は打昇(うちのぼり)の浜と近く、地形も相続いている。殆ど同じ土地と言ってしまってよい」と答えた。そこで「近(ちか)の嶋」と言ったものを、訛って、「資珂の嶋」とよんでいる[5]。
この条から、大浜宿禰は弟の小浜宿禰と共に神功皇后の新羅遠征にも従軍していることが分かる。
その後、応神天皇の子である仁徳天皇崩御後に、大浜宿禰の親族と見られる浜子は淡路島の海人集団を活用し、住吉仲皇子を担ぎだしてクーデターを起こすことになる。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『古事記』完訳日本の古典1、小学館、1983年
- 『日本書紀』(二)・(三)、岩波文庫、1994年
- 『日本書紀』全現代語訳(上)講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1988年
- 『風土記』、武田祐吉:編、岩波文庫、1937年
- 『角川第二版日本史辞典』p23、高柳光寿・竹内理三:編、角川書店、1966
- 『岩波日本史辞典』p25、監修:永原慶二、岩波書店、1999年
- 『日本古代氏族事典』【新装版】佐伯有清:編、雄山閣、2015年
- 『日本の古代6 海人の伝統』、大林太良:編、中公文庫、1996年