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アラタンオチル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
阿勒坦鄂齋爾から転送)
アラタンオチル
『最新支那要人伝』(1941年)
プロフィール
出生: 1882年光緒8年)
死去: 1949年民国38年)4月16日
中華民国の旗 中華民国 内モンゴル定遠営
出身地: 清の旗 綏遠オルドス右翼後旗(現在の内モンゴル自治区ハンギン旗
職業: 政治家・軍人
各種表記
繁体字 阿勒坦鄂齋爾
簡体字 阿勒坦鄂齐尔
拼音 Ālètǎn'èqíĕr
ラテン字 A-lo-tan-e-chi-erh
和名表記: アラタンオチル
発音転記: アロタンオチアル
英語名 Altanochir
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アラタンオチル[1]モンゴル語:ᠠᠯᠲᠠᠨᠸᠴᠢᠷ Altanochir、阿勒坦鄂齋爾)は中華民国時代の軍人・政治家。モンゴル族。号は宝珍綏遠オルドス(鄂爾多斯)右翼後旗(現在の内モンゴル自治区ハンギン旗(杭錦旗))の人。

事績

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若年時代から王府、旗府で文書工作を担当していた。27歳でハンギン旗ジャサク郡王を継承する[2]中華民国成立後は、臨時参議院参議や安福国会時の衆議院議員を務めた[3]

1924年民国13年)、イフ・ジョー(伊克昭盟)副盟長となった[4]1928年(民国17年)、包頭区防副司令となる[2]1933年(民国22年)、ハンギン保安司令を樹立して自ら保安司令となり[5]1934年(民国23年)3月、蒙古地方自治政務委員会委員に任ぜられた[3]1936年(民国25年)1月、綏遠省において蒙古各盟地方自治委員会副委員長をつとめている。1937年(民国26年)2月、陸軍中将に任命された[2][4]

日中戦争勃発後の1937年(民国26年)10月に蒙古聯盟自治政府が成立すると、アラタンオチルは同政府の参議会参議となる[2][4]。翌年2月、イフ・ジョー盟副盟長を兼任し、蔣介石を支持した盟長シャクトルジャップ(沙克都爾札布)に代わって盟長の職務を執行した[4]1939年(民国28年)9月1日、蒙古聯合自治政府が成立すると、興蒙委員会委員、オルドス挺進軍総司令となり[2]、引き続きイフ・ジョー副盟長も務めている[4][6]1941年(民国30年)、内モンゴル西部に設立された臨時行政区行政長官と警衛師第12師中将師長も兼任した[2]

蒙古自治邦崩壊後、アラタンオチルは内モンゴル人民共和国の政府委員・交通委員に選ばれた。また、傅作義からイフ・ジョー盟保安師師長に任命される。1947年(民国36年)、イフ・ジョー盟のジャサク(扎薩克)・副盟長となった。1949年(民国38年)春、定遠営(現在のアルシャー盟)においてデムチュクドンロブ(徳王)らが主導する蒙古自治籌備委員会の主任委員に就任したが、同年4月16日に病没した。享年68[2][3]

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  1. ^ 東亜問題調査会編(1941)、1頁の表記による。
  2. ^ a b c d e f g 徐主編(2007)、782頁。
  3. ^ a b c 劉主編(2005)、1294頁。
  4. ^ a b c d e 東亜問題調査会編(1941)、1頁。
  5. ^ 徐主編(2007)、782頁と劉主編(2005)、1294頁による。 東亜問題調査会編(1941)、1頁によれば、1931年(民国20年)、蒙古地方自治政務委員会委員・ハンギン保安司令部司令となり、陸軍中将に任ぜられた、としている。
  6. ^ 徐主編(2007)、862頁と劉主編(2005)、1294頁は、後に盟長に昇進したとしている。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 東亜問題調査会編『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。