阿倍毛人
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時代 | 奈良時代中期 - 後期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 宝亀3年11月17日(772年12月15日) |
官位 | 従四位上参議 |
主君 | 聖武天皇→孝謙天皇→淳仁天皇→称徳天皇→光仁天皇 |
氏族 | 阿倍朝臣(安倍朝臣) |
父母 | 父:阿倍宿奈麻呂?[1] |
兄弟 | 駿河、子島、毛人 |
阿倍 毛人(あべ の えみし)は、奈良時代の公卿。系譜は明らかでないが、大納言・阿倍宿奈麻呂の子とする説がある。官位は従四位上・参議。
経歴
[編集]天平18年(746年)従五位下に叙爵し、翌天平19年(747年)玄蕃頭に任ぜられる。天平勝宝6年(754年)山陽道巡察使。
淳仁朝では、天平宝字3年(759年)従五位上・仁部大輔、天平宝字6年(762年)左中弁、天平宝字7年(763年)正五位下・河内守と要職を歴任しながら順調に昇進した。
しかし、天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱では、藤原仲麻呂側に加勢しなかったらしく、翌天平神護元年(765年)には正五位上次いで従四位下と続けて昇叙された。のち称徳朝では、五畿内巡察使・大蔵卿・造東大寺次官を歴任し、神護景雲4年(770年)8月の称徳天皇崩御に際しては山陵司を務めている。
同年10月の光仁天皇の即位に伴い従四位上に叙せられ、翌宝亀2年11月(772年1月)参議に任ぜられ公卿に列する。宝亀3年(772年)11月17日卒去。最終官位は参議従四位上。
官歴
[編集]『続日本紀』による。
- 時期不詳:正六位上
- 天平18年(746年) 4月22日:従五位下
- 天平19年(747年) 3月10日:玄蕃頭
- 天平勝宝6年(754年) 7月20日:御装束司(太皇太后・藤原宮子葬儀)。11月1日:山陽道巡察使
- 天平宝字3年(759年) 5月17日:文部少輔。6月16日:従五位上。11月5日:仁部大輔
- 天平宝字6年(762年) 正月9日:左中弁
- 天平宝字7年(763年) 正月9日:正五位下、河内守
- 天平神護元年(765年) 正月7日:正五位上。閏10月15日:従四位下
- 天平神護2年(766年) 9月23日:五畿内巡察使。
- 天平神護3年(767年) 2月28日:大蔵卿。8月29日:造東大寺次官
- 神護景雲4年(770年) 8月4日:山陵司(称徳天皇崩御)。10月1日:従四位上
- 宝亀2年(771年) 5月14日:伊勢守。11月23日:参議
- 宝亀3年(772年) 11月17日:卒去(参議従四位上)