関西デザイン造形専門学校
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関西デザイン造形専門学校(かんさいデザインぞうけいせんもんがっこう)は、1919年(大正8年)に開設された日本最初の洋裁学校である。
概要
[編集]初代校長となる山本ヒデが大日本婦人洋装普及会を組織し、1919年(大正8年)に開設した。その後、1930年(昭和5年)に山本洋装女学院として組織を拡大し、1934年(昭和9年)に山本洋装女学院として、各種学校の認可を大阪府より受ける。1942年(昭和17年)に山本服装女学校と改称、1951年(昭和26年)に学校法人山本学園として認可を受け、山本服装専門学校と改称し、山本とみが2代目校長に就任する。1954年(昭和29年)学園作品発表会には高松宮宣仁親王が来校する。1969年(昭和44年)に山本文化服装学院と改称、1983年(昭和58年)に関西ファッションビジネス専門学校に校名変更、1998年(平成10年)に関西デザイン造形専門学校に校名変更する。2010年(平成22年)に閉校となった。
沿革
[編集]- 1919年(大正 8年)- 山本ヒデが欧米各国を視察後、大日本婦人洋装普及会を組織し、各地で講習会を開く。現在地に事務所を開設。
- 1926年(大正15年)- 大日本婦人洋装普及会の活動を続けると共に、事務所に塾を開く。
- 1930年(昭和 5年)- 塾を山本洋裁女学院として組織を拡大。山本ヒデが初代校長に就任。
- 1931年(昭和 6年)- 和服地を用いた改良服を大阪府女子教育会に発表。
- 1932年(昭和 7年)- マネキンの着付(ピンワーク)を本校で開発(イトマンで展示)。
- 1934年(昭和 9年)- 山本洋裁女学院として各種学校の認可を大阪府より受ける。
- 1940年(昭和15年)- 作品発表会を美津濃百貨店で開催。以後年中行事となる。
- 1941年(昭和16年)- 『真理の服装』(山本とみ著)を刊行。山本システムの服装理論を確立。
- 1942年(昭和17年)- 山本服装女学校に改称。
- 1946年(昭和21年)- 財団法人の認可を受ける。山本武夫が理事長に就任。
- 1947年(昭和22年)- 『スタイルガイド』(山本とみ著)を刊行。
- 1951年(昭和26年)- 学校法人山本学園として認可を受ける。山本服装専門学校と改称。山本とみが校長に就任。
- 1953年(昭和28年)- 初代校長の山本ヒデが死去。
- 1954年(昭和29年)- 本学園作品発表会に、高松宮宣仁親王来校。
- 1955年(昭和30年)- 本学園作品発表会「生活に即した服装」を髙島屋で開催。
- 1957年(昭和32年)- 校舎を大幅に増改築する。
- 1962年(昭和37年)- 理事長の山本武夫が死去。校長の山本とみが理事長を兼務。
- 1964年(昭和39年)- 理事長の山本とみが大阪府より教育功労者表彰を受ける。『ソーイングブック』(山本とみ著)を刊行。鉄筋三階建校舎が完成。
- 1969年(昭和44年)- 山本文化服装学院と改称し、東京文化連鎖校となる。
- 1974年(昭和49年)- 理事長の山本とみが産業教育九〇年式典において、文部大臣より産業教育功労者として表彰を受ける。
- 1976年(昭和51年)- 学校教育法の改正に伴い、専修学校山本服装専門学校 専門課程・一般課程の設置認可を受ける。副校長の山本富佐子が校長に就任。『服飾文化私論』(山本とみ著)を刊行。
- 1977年(昭和52年)- 専門課程 教員養成学科・技術特修学科を増設。理事長の山本とみが藍綬褒章を受章。
- 1980年(昭和55年)- 鉄筋四階建の新校舎完成。
- 1983年(昭和58年)- 関西ファッションビジネス専門学校に校名変更。同時に設置課程、学科を服装専門課程、基礎学科、専攻学科、研究科と改編。理事長の山本とみが勲四等瑞宝章の叙勲を受ける。
- 1987年(昭和62年)- 校長の山本富佐子が理事長に就任。
- 1990年(平成 2年)- 名誉学園長の山本とみが理事長に再任。常任理事の小早川享が校長に就任。アパレルCADを導入。ファッション産業教育を本格的に始動。
- 1998年(平成10年)- 関西デザイン造形専門学校に校名変更。ファッション専門課程、ファッション学科ファッション専攻、ファッション研究科ファッション研究専攻。
- 2010年(平成22年)- 閉校。
所在地
[編集]外部リンク
[編集]- 関西デザイン造形専門学校 (閉鎖)[リンク切れ]“アーカイブ(2010年1月23日時点)”
座標: 北緯34度37分14.8秒 東経135度31分12.7秒 / 北緯34.620778度 東経135.520194度