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関東大震災朝鮮人虐殺事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
関東大虐殺から転送)

関東大震災朝鮮人虐殺事件(かんとうだいしんさいちょうせんじんぎゃくさつじけん、: 관동대학살)とは、1923年大正12年)の日本で発生した関東地震関東大震災の混乱の中で、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人や社会主義者が暴動を起こした。放火した」などのデマを妄信した官憲自警団などが、関東各地で多数の朝鮮人を殺傷した事件の総称である。日本人や中国人が誤認により殺傷された事件や、官憲による社会主義者の殺害事件もあった(亀戸事件甘粕事件[1][2][3][4][5][6][7][8][注 1]。殺傷事件の犠牲者数は、論者の立場により幅広い差があり、正確な人数は不明である[10][11][12]

概要

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本所石原方面大旋風之真景,帝都大震災画報

震災時

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1923年(大正12年)8月24日、加藤友三郎首相が病死した。このため内閣総辞職し、8月28日、山本権兵衛に組閣命令が出されていた[13][14]。震災当日の9月1日夜半には臨時首相・内田康哉の下で閣議が開かれ、2日午前9時には、非常徴発令[注 2]、臨時震災救護事務局官制、戒厳に関する勅令[注 3]が発せられた[13][17]

震災後、すでに1日から、朝鮮人暴動の流言が流布しており、2日正午までには東京全市・横浜全市に伝わった[18]。流言を流布していた朝鮮人も2名逮捕されている[19]

1日に「朝鮮人が来襲する」という通報が警視庁にもたらされ、2日まで東京市内の官憲が朝鮮人の襲撃に備えて警戒していたが、2日の夜10時ころになっても全く朝鮮人が来なかったために虚報であったと判明する[20]。 2日の夜には、警視庁から新聞社に、「朝鮮人暴動」などが流言であることを伝えて、3日の『東京日日新聞』の朝刊に、一部の「不逞な朝鮮人」による盲動があるとはいえ、大多数の朝鮮人は善良であるため、迫害や暴行などを加えてはならないという「告示」を掲載している[21]。官憲当局は、一部の「不逞な朝鮮人」による暴行等の事件は発生しているとしたうえで、内務省が発表している朝鮮人事件に関する内容が、新聞社により誇大な報道がなされているとし、流言報道の沈静化を図った[22]

昨夜来一部不逞鮮人の盲動ありたるも今や厳重なる警戒によりその跡を絶ち鮮人の大部分は順良にして何等兇行を演ずるものにこれなくに付きみだりにこれを迫害し暴行を加ふる等これなき様注意せられ度。また不穏の点ありと認むる場合は速やかに軍隊警察官に通告せられたし 九月三日 警視庁
『東京日日新聞』、1923年9月3日號外

3日午前8時、内務省警保局長後藤文夫海軍省船橋送信所より、以下の電文を各地方長官(現在の都道府県知事)に送った[23][24]

東京附近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加へ鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし。[23][24]

横浜では、2日午後8時、横鎮長官発、海軍大臣宛て電文で、「本日午前十一時横浜着警備艇の情況報告の要領左の如し。一、一日午前十一時五十八分激震防波堤税関を破壊し全市の家屋倒壊し、爆破所々に起り不逞鮮人の放火と相俟て全市火の海と化し……」と報告された[25]

東京日日新聞(一六八六七号)に「火をのがれて生存に苦しむ牛込」「雨と火と朝鮮人との三方攻め」といふ題下にて、次の如き記事が載せてあつた。 「火に見舞れなかつた唯一つの地として残された牛込の二日夜は、不逞鮮人の放火及び井戸に毒薬投下を警戒する為め、青年団及び学生の有志達は警察、軍隊と協力して、徹宵し、横丁毎に縄を張つて万人を附し、通行人を誰何する等緊張し、各自棍棒、短刀、脇差を携帯する等殺気立ち、小中学生なども棍棒を携へて家の周囲を警戒し、宛然在外居留地に於ける義勇兵出動の感を呈した。市ヶ谷町は麹町六丁目から、平河町は風下の関係から(此所新聞紙破れて不詳)又三日朝二人連の鮮人が井戸に猫イラズを投入せんとする現場を警戒員が発見して直ちに逮捕した。」  下野新聞(九月六日)に「東京府下大島附近」「鮮人と主義者が掠奪強姦をなす」と云ふ題下にて次の如き記事が記載されていた。 「東京府下大島附近は、多数の鮮人と支那人とが空家に入り込み、夜間旺に掠奪強姦をなし、又社会主義者は、市郡に居る大多数の鮮人や支那人を煽動して内地人と争闘をなさしめ、そして官憲と地方人との乱闘内乱を起させ様と努めて居る許りでなく、多数罹災民の泣き叫ぶのを聞いて、彼等は革命歌を高唱して居るので、市民の激昂はその局に達して居る。」[26]

工藤美代子は、9月2日の緊急勅令による戒厳令の一部の施行については、朝鮮人の独立運動家や社会主義者らが、一斉に放火、殺人、襲撃、テロ等を行ったことによる混乱を収集し治安回復することが目的であり、朝鮮人への殺害とは無関係であって、むしろ戒厳令発令のおかげで民心は安心し社会も安定に向かったと述べており、美濃部達吉も同様の見解であったとしている[27]

震災から数日間の新聞記事での記述

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震災当初の新聞報道は下記等である。各紙は取材で得られた体験談や目撃情報を事実の確認ができない状態で記事にした[28]。9月3日、内務省警保局は虚説の伝播による社会不安の増大防止のため「朝鮮人に関する記事は一切掲載せざる」ことを各紙に警告した[29]

不逞鮮人各所に放火し帝都に戒厳令を布く 三百年の文化は一場のゆめハカ場と化した大東京
……一方猛火は依然として止まず意外の方面より火の手あがるり點につき疑問の節あり次で朝鮮人抜刀事件起り警視□小林警務長係外特別高等刑事各課長刑事約二十名は五臺の自動車にて現場に向つた當市内鮮人、主義者等の放火及宣傳等々としてあり二日夕刻より遂に戒厳令をしきこれが検挙に努めてゐる因に二日未明より同日午後にわたり各署で極力捜査の結果午後四時までに本郷冨坂町署で六名麹町署で一名牛込區管内で十名計十七名の現行犯を検挙したがいづれも不逞鮮人である
東京日日新聞,一九二三年九月三日、山田 (2004, p. 139)
鮮人いたる所めつたぎりを働く 二百名抜刀して集合警官隊と衝突す
今回の凶□を見たる不逞鮮人の一味はヒナンせる到る所の空屋等に□たるを幸ひ放火してをることが判り各署では二日朝来警戒を厳にせる折りから午後に至り市外淀橋のガスタンクに放火せんとする一團あるを見け辛ふじて追ひ散らしてその一二を逮捕したがこの外放火の現場を見つけ取り押へ又は追ひちらしたもの数知れず政府當局でも急に二日午後六時を以て戒厳令をくだし同時に二百名の鮮人抜刀して目黒競馬場に集合せんとして警官隊と衝突し双方数十名の負傷者を出したとの飛報警視□に達し正力主導山田高等普通課長以下三十名現場に急行し一方軍隊側の応援を求めた……
東京日日新聞,一九二三年九月三日、山田 (2004, p. 139)
日本人男女十数名をころす 本部は世田ヶ谷
……途中出會せし日本人男女十数名を斬殺し□憲兵警官隊と衝突し……
東京日日新聞,一九二三年九月三日、山田 (2004, p. 140)
下野新聞(宇都宮)
  • 大森方面に於て不逞鮮人隊と我歩兵小隊と戦闘開始……
  • 三河方面より不逞鮮人が二百名押寄す報……
  • 大久保で鮮人が井戸に毒を投じ二百人死亡……
下野新聞,一九二三年九月四日、山田 (2004a, pp. 233–236)
上毛新聞(前橋)
  • 鮮人入り込む 井水に投毒が目的……
    足利出張所よりの報道に依れば足和市に三百餘名の朝鮮人が下車したので市民は大騒ぎを為しつゝあり……
  • 警鐘を乱打し 浦和町の大警戒……
    前橋支店に報告した處に依ると鮮人多数入町し爲めに各町に於て警鐘を乱打し之れが防禦に当つて居る……
  • 鮮人盛んに襲ふ 亀井伯古河男等の邸宅に 王子警察活動捕縛に努む
上毛新聞,一九二三年九月四日、山田 (2004a, pp. 283–284)
小樽新聞 発行 小樽市……
  • 9.2 号外第二 1 大東京市の約三分の二焦土と化し死傷者の山 不逞鮮人横行……
小樽新聞、山田 (2004d, p. 52)
樺太日日新聞(豊原)
  • 鮮人の大暴動
    守備隊と激戦中也……朝鮮守備隊は直ちに鎮静に努めん……この報本日午後零時三十分に到着した……(9月3日)……
  • 名古屋の不逞鮮人……(9月4日)……
樺太日日新聞、山田 (2004b, p. 9)
北海タイムス(札幌)
  • 鮮人跋扈【青森二日発電】東京市内に不逞鮮人跋扈して居る……(9月3日)……
  • 不逞鮮人暴挙 不忍池に毒薬を投ず
    【宇都宮四日終電】不逞鮮人は今尚、上野を中心に暴動を起し強盗凌辱の虜に……(9月5日)……
  • 鮮人三百船橋上陸 危険に頻し応援依頼【船橋無電三日午後八時半発軽川無電四日午後九時着】……(9月5日)……
  • 不逞鮮人と戦闘開始 三千名の鮮人横濱より来る小隊全滅の虞あり急を告ぐ【四日午前八時着宇都宮経由】……(9月5日)……
北海タイムス、山田 (2004b, pp. 21–25)
函館日日新聞(函館)
  • 東京全市三分の二焼け不逞鮮人大にはびこる……(9月2日(夕刊))……
  • 野獣の如き鮮人暴動魔手帝都から地方へ 強盗強姦掠奪殺人が彼等の目的 近衛と一師団が必死の活動……
    【青森発電】……熊谷駅から聞知する所に依れば鉄道線路の一部を破壊し何れも逃走した……碓氷峠其他信越線を通過する列車を目蒐けて爆弾投下する目的を以て碓氷峠に入り込んだこと判明し……三百名の鮮人は何れも手に石油爆弾を持つて居るのを蒲田駅で発見し……(9月5日)
函館日日新聞、山田 (2004b, pp. 66–67)
弘前新聞(弘前)
  • 山伯暗殺 犯人は不逞鮮人……(9月3日)……
  • 歩兵一個小隊全滅
    二日午後五時頃よ四百名の不逞鮮人横浜に現れ……(9月4日)……
  • 鮮人高崎の火薬庫爆発せんとす……
  • 二千の鮮人暴徒東海道を荒し廻る……(9月5日)……
弘前新聞、山田 (2004b, pp. 99–108)
河北新報(仙台)
  • 四百名の不逞鮮人遂に軍隊と衝突 東京方面へ隊を組んで進行中 麻布聯隊救援に向ふ……(9月4日(3日夕刊))……
  • 約三千の不逞鮮人大森方面より東京へ……(9月4日)……
  • 殆ど全滅の横濱 死傷約四十八萬 看守が囚徒を指揮して二千の不逞鮮人と戦ふ 知事は重傷で起てず 救済策も講ぜられない……(9月5日(4日夕刊))……
  • サノミユル工場に使用されてゐた一千数百名の鮮人 災害の横濱より結束固く更に数百名を加へて帝都に闖入(9月6日(5日夕刊))……
  • 大震後の東京は焼石の河原のやうだ 不逞鮮人の暴動は事実 観察した渋谷大学書記談……(9月6日)……
  • 何でもないのに物々しい此騒ぎ 市民があんまり過敏だ 流言蜚語に迷ふな……(9月8日(7日夕刊))……
河北新報、山田 (2004b, pp. 127–164)
荘内新報 発行 山形県西田川郡……
  • 9.2号外第9報 1 山本首相暗殺? 主義者の暴動(「不逞鮮人」の暴動も報道)……
荘内新報、山田 (2004, p. 87)
山形民報(山形)
  • 不逞鮮人三百餘名 爆弾を以て市内各所を爆破 近衛兵と下谷で衝突【三日午前十時宇都宮発】……
  • 三千の暴徒集合 大森にて軍隊と衝突 歩兵一個小隊全滅したるか……(9月4日)……
  • 一萬の不逞鮮人東京を逃れて自由行動 毒薬を井戸に投げ込んではドラクサ紛れて逃げ出した……(9月6日)……
  • 鮮人二百襲来海岸で邦人と格闘 周到なる鮮人の計劃……
    然るに鮮人二百名餘り或は船に乗り或は泳いて月島に襲来した……(9月7日)……
山形民報、山田 (2004b, pp. 205–229)
福島民友新聞(福島)
  • 歩兵と不逞鮮人と戦闘を交ゆ 京浜間に於て衝突し……
福島民友新聞,9月4日(3日夕刊)、山田 (2004b, p. 260)
新潟毎日新聞(新潟)
  • 山本伯暗殺説 ……
  • 不逞鮮人跋扈 山本伯暗殺説は或は彼等の行為か【長野電話】東京全市の火災を機として不逞鮮人跋扈し盛んに横行し何等かの陰謀を企て其行動を進めて居る右より察するに山本伯の暗殺説は彼等一味の所為ならんと言はれて居る ……
新潟毎日新聞,9月3日(2日夕刊)、山田 (2004b, p. 293)
北陸タイムス(富山)
  • 東京無警察状態 不逞鮮人の跋扈……(9月3日)……
  • 不逞鮮人や支那人が高位高官に爆弾を投げ……(9月4日(3日夕刊))……
北陸タイムス、山田 (2004b, p. 329)
北国新聞 発行 金沢市……
  • 9.2号外 2 〔東京市中〕鮮人横行す 秩序全く紊る……
山田 (2004d, p. 137)
名古屋新聞(名古屋)
  • ……山本伯が不逞鮮人に暗殺されたとの噂さ……(9月3日)……
  • 鮮人浦和高崎に放火 高崎にて十餘名捕はる……(9月4日(号外))……
名古屋新聞、山田 (2004b, p. 393)
京都日出新聞(京都)
  • 砲兵工廠等の火薬庫爆発 震源地は伊豆大島か
    朝鮮人の暴徒が起つて横濱、神奈川を経て八王子に向って盛んに火を放ちつゝあるのを見た……
京都日出新聞,9月4日(3日夕刊)、山田 (2004c, p. 25)
大阪朝日新聞(大阪)
  • 蜚語、暴利の取締等四項 警察署長を集め部長の厳達
大阪朝日新聞,9月4日(3日夕刊)、山田 (2004c, p. 59)
神戸又新日報(神戸)
  • 萬一を慮り弾丸を搭載 東京湾に回航すべき軍隊「扶桑」不逞鮮人が爆弾を持込んだとの噂……
神戸又新日報,9月4日、山田 (2004c, p. 96)
松陽新報 発行 松江市……
  • 9.2号外第四 1 不逞鮮人跳梁す 東京は無秩序状態……
松陽新報,9月2日、山田 (2004d, p. 195)
海南新聞 発行 松山市……
  • 9.2第三号外 1 鮮人の不逞分子が火薬庫爆發の風説 兢々たる帝都の人心 郊外への避難者續々……
海南新聞,9月2日、山田 (2004d, p. 210)
関門日日新聞 発行 下関市……
  • 9.5 2 暴漢襲撃説は何者かの宣傳らしい 飛行場に殺到したのは流言に怖れた避難民……
関門日日新聞,9月2日、山田 (2004d, p. 203)
福岡日日新聞(福岡)
  • 帝都は殆ど無秩序 宮内省内務省も焼く 焦土と化した東京市中は大混乱を呈し鮮人等の跋扈非常に横暴を働いて居り……
福岡日日新聞,9月2日(号外)、山田 (2004c, p. 275)

日本の治安当局の対応

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後世、警察や軍が朝鮮人殺害に実行・加担ないし煽ったと見る向きも多く、とくに震災後間もない時期においては一般論としてその傾向も強いが、その流れに抗した者もいる。自警団から朝鮮人・中国人数百名を守った大川常吉神奈川警察署鶴見分署長のように、暴徒との対決も辞さず制した者や、横浜の朝鮮人226名を9月23日に横須賀の不入斗練兵場陸軍砲廠で保護収容し臨時治療所を開設する等の動きがあった [30]。麹町警察署管内では、山口警察署長が自警団に武器携帯を禁じ、軍隊に対しても犯罪の有無をみて朝鮮人を保護するように伝えた。デマが明らかとなっていない間、山口は軍からは嘲笑され自警団からは反感を買いながらも、朝鮮人二百余名を保護し、彼の管内では問題を起こさなかったという[31]

一方で、亀戸署では、署長古森繁高は、朝鮮人検束に熱心であった。ピークの4日夜には1300人を超えたという。限られた署員数、留置施設により署員らは恐慌をきたし、3日朝から既に若い警官や兵士が「鮮支人は見つけ次第殺してもいいんだ」と言っている姿が、後に報告されたという。有名な第一次の亀戸事件(一般に不良自警団員4人の殺害とされているが、むしろ犠牲者の一人は中国人の人夫を解雇して日本人を雇えという同署の特高刑事からの要求を拒否していた手配師で、どちらかといえば中国人側に立ち、署に睨まれていた人物であった。自警団が悪者とされるに連れ、すり替えられた節がある。)、署が軍人に依頼して署で行われたといわれる社会主義者約10人の殺害事件である第二次亀戸事件、署が直接に関与したといわれる社会運動家である中国人の王希天の殺害事件が起きている。その他、事態が問題となって視察が行われるということから口封じに朝鮮人三百数十人が殺害され、死体が焼却されたという噂もある[誰によって?]。また、朝鮮人・中国人収容者は随時、軍の習志野の収容施設に送られていて、そこで、あるいは移送途上で大量に殺害された可能性も囁かれている[誰によって?][32]

習志野に収容された朝鮮人・中国人らは釈放されたものの、付近の地元自警団が引き取るようにいわれ、そこでまた地元の自警団によって多数が殺害されている。この自警団への引渡しは、既に軍によって多数が殺害されていたため、それをウヤムヤにするためのものであったのではないかとする見方がある[誰によって?][33]

9月7日に治安維持法の前身となる緊急勅令が発布されていた。

自警団は東京府で1,593団体、関東地方全域で3,689団体が組織された[34]

震災時の背景

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韓国併合と日本の不況により朝鮮人の紛争が増加

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伊藤博文。初代韓国統監(1905年-1909年)。

1905年(明治38年)、乙巳保護条約(第二次日韓協約)から、日本による韓国の領有が始まった[35]1910年(明治43年)8月29日、日本は「韓国併合に関する条約」を締結し、朝鮮の一切の統治権が「完全且永久」に日本へ「譲与」された(第一条)[35]

併合後に本格化した「土地調査事業」により、朝鮮の農民は祖先伝来の土地を取り上げられ、農村での生活が困難になった多くの朝鮮人が、日本や満州に移り住むことになった[36]

サラエボ事件を端緒とする第一次世界大戦の終結後、アジア各地で独立運動が起きた。1919年(大正8年)に起きた三・一独立運動の影響をおそれた朝鮮総督府は、同年、「朝鮮人の旅行取締に関する件」を公布し、渡航を警察への届出許可制にした[37][38]。その後、日本の食糧不足を切り抜けるため、朝鮮総督府は、1920年(大正9年)から「産米増殖計画」を実施した[37]。この結果、日本による朝鮮での土地収奪が一層進行し、再び日本での朝鮮人人口は増加した[37]

1922年(大正11年)、慢性的な不況下の日本において、資本家が安価な労働力を必要としたため、朝鮮人の渡航について、届出許可制から「自由渡航制」に切り替えられた[37][38]。これにより、日本へ移る朝鮮人は更に増えることとなった[37]。ところが、日本の景気が悪化すると、就職難で苦しみ、不老無頼の徒党を徒党を形成したり、社会運動や労働運動に参加して、集団行動に出る傾向が特に著しい朝鮮人が多数発生してしまったことが政府の記録に残っている[39]

朝鮮人労働者募集に関する件依命通牒
(略)内地経済界不振の際とて彼ら鮮人の多数は就職難に苦み浮浪無頼の徒を生ずるの傾向あるのみならず、往々にして社会運動及労働運動等に参加し団体的行動に出でんとする傾向の特に著しきものあり、尚内地人との間にも各種の紛争を頻発する等将来種々の問題を熟成するおそれあるを以て(略)
大正十二年五月十四日内務省警閣第三號

そのような朝鮮人が日本人と争いを頻発させるなどの問題が発生していたために1923年(大正12年)に「朝鮮人労働者募集に関する件」が発令され[39]、1923年(大正12年)に「朝鮮人労働者募集に関する件」、1924年(大正13年)に「朝鮮人に対する旅券証明書の件」、1925年(大正14年)には釜山港において「渡航阻止制」を実施した[40]1919年三・一独立運動以降、日本に朝鮮人の活動家が多く流入し、爆弾を隠し持っていたところを摘発される報道などが増えていった[41]窪田順生によると、そのために一般庶民の間に「不逞鮮人=国家転覆や国土の略奪を狙うテロリスト」というイメージが形成され[41]、朝鮮人が恐怖と不安の対象となり「不逞鮮人」という表現が一時期は流行語にもなったとされる[42]

当時の日本政府は、地震発生前に起きた朝鮮の三・一独立運動や台湾の大規模デモを流血鎮圧した経験から、これら統治領の独立運動を行う一部の民衆の抵抗に警戒感を抱いていた[43]。当時の朝鮮人への無理解と民族的な差別意識も背景として考えられる[44]。日本国内では大正デモクラシーによって労働運動民権運動・女性運動など支配権力に対する社会主義者らの抵抗・権利拡大運動の活性化と、それに対抗する保守的勢力の急伸、首相暗殺や恐慌による政治経済への不安から社会体制が揺らいでいた[43]。また、国外でもイギリス・アメリカとの対立、シベリア出兵の大失敗などから国際的な孤立化を深めつつあり、関東大震災はいわば内憂外患の状態に追い打ちをかけるように起こった大災害だった[43]

山本内閣は9月7日に治安維持令を公布した。この戒厳令が解除された11月15日までの東京・神奈川・埼玉・千葉の被災地1府3県民の市民的・政治的自由が停止した状態の中で、大震災発生直後の9月1日午後3時以降、東京や横浜などで「社会主義者及び鮮人の放火多し」「不逞鮮人暴動」といったデマが発生していったが、デマの中には警察や軍が流したものもあった[45]。これらの報道や伝聞による噂に接し不安を煽られた各地の民衆や有志によって自警団が結成されたが、中には地域の管轄警察の主導・指導で組織された自警団もあった。これら自警団の一部によって朝鮮人・日本人・中国人らが虐殺されていった[45]

関東戒厳司令部に参加した井染祿朗大佐は「今回の不逞鮮人の不逞行為の裏には社会主義者やロシアの過激派が大なる関係を有するようである」と発言した[46]。そして陸軍と警察はこの混乱を奇貨として、社会主義者や労働運動家らの抹殺を画策し、10名が軍隊に殺害された亀戸事件および無政府主義者が憲兵大尉らに殺害された甘粕事件が実行された。しかしこうした「白色テロ」に対する責任追及や批判は低調だった。当時の社会にとっては治安維持と被災者救援活動の一環であり、軍や政府や警察が威信を取り戻したとして歓迎される状況になっていた[45]

のちに警察が押収した、10月11日に朝鮮総督府警務局が発布した公文書によると、官憲の暗殺の扇動が行われており、警察署長は一千円、郡守は七百円、警部警部補は六百円、巡査部長は五百円、内地人部課長は三百円、駐在所首席巡査は四百円、内地人巡査は三百円、面長は三百円、朝鮮人巡査は二百円、面書紀は百円の懸賞金をかける旨の扇動が公式に行われていたことが判明している[47]

日本内地に居住していた朝鮮人の人口

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警視庁官房特別高等課に設置されていた内鮮高等係によれば、震災当時に在京していた朝鮮人は、詳細に状況を知りうる者6500名、その他、5000〜6000名が認められ、合計1万人以上は全市及び接続郡部にいた[48]。そのうち学生は1500〜1600名だったが、その多くは夏期休暇のため帰省中だった[48][注 4]

大正9年(1920年)第1回国勢調査「国籍民籍別人口」の「殖民地人」統計によると、男性36,043名・女性4,712名の朝鮮人(東京男性2,304名女性181名、神奈川男性725名女性57名、千葉県男性36名女性4名、埼玉県64名女性14名、愛知県男性522名女性143名、京都男性823名女性245名、大阪男性5,445名女性845名、兵庫男性3,059名女性711名、福岡男性7,161名女性672名)が日本内地にて居住していた [50]

大正14年(1925年)第2回国勢調査においては国籍(民籍)ごとの統計がない。

昭和5年(1930年)第3回国勢調査「民籍国籍別人口」の「外地人」統計によると、419,009名の朝鮮人(東京38,355名、神奈川13,181名、千葉県1,728名、埼玉県1,164名、愛知35,301名、大阪96,943名、京都27,785名、兵庫26,121名、福岡34,639名)が居住していた [51]

経済学者の田村紀之は、国勢調査と内務省警保局調査等を用いて当時の朝鮮人人口を推計している[52]。田村による推計は研究者の間で「田村推計」あるいは「田村統計」と呼ばれて用いられている。田村推計は1977年に公表されたのち、幾度か改訂があり、下表は田村推計の2011年最新版による関東地方における震災前後の朝鮮人人口である[52]

田村紀之の論文において推計されている関東地方の朝鮮人人口[52]
0東京府0 神奈川県 0埼玉県0 0千葉県0 0茨城県0 0栃木県0 0群馬県0
1919年 1,746人 521人 56人 17人 30人 77人 199人
1920年 2,485人 782人 78人 40人 74人 97人 283人
1921年 3,561人 1,029人 111人 98人 95人 120人 329人
1922年 6,464人 1,766人 215人 213人 201人 133人 307人
1923年 6,870人 2,921人 249人 254人 297人 157人 589人
1924年 12,626人 5,354人 742人 666人 618人 280人 914人
1925年 15,153人 6,738人 799人 1,300人 606人 311人 1,612人
※毎年10月1日を基準とする[52]

当時の東京府の朝鮮人人口に関して、市・区・郡別に1年毎に記録した資料は『東京府統計書』が唯一であるとされる[53]

東京府の朝鮮人人口
(東京府統計書)[53]
1919年 01,072人
1920年 02,120人
1921年 03,234人
1922年 04,631人
1923年 全ての市・区・郡において不明
1924年 08,385人
1925年 10,818人
※市・区・郡を合計した東京府全体の朝鮮人人口[53]

首都圏で2番目に朝鮮人が多い神奈川県は、内務省警保局調べによると1923年末に1,860人の朝鮮人が在住していた[54]。1925年5月21日付の『横浜貿易新報』によれば神奈川県下に約6,000人の朝鮮人が働いていた[55]

1923年は下表のように日本内地と朝鮮半島間で朝鮮人の流出入がある。

1923年に日本内地へ渡航した朝鮮人と半島へ帰還した朝鮮人[56]
日本内地渡航者 朝鮮半島帰還者
01月 9,427人 6,182人
02月 6,844人 6,398人
03月 25,260人 4,417人
04月 10,181人 5,051人
05月 9,425人 5,728人
06月 8,129人 6,038人
07月 10,395人 6,878人
08月 12,686人 8,178人
09月 2,410人 14,717人
10月 602人 13,726人
11月 864人 6,630人
12月 1,172人 5,802人
朝鮮総督府警務局編「関東地方震災ノ朝鮮ニ及ボシタル状況」『斎藤実関係文書 書類の部 1』115-16
及び、朝鮮総督府警務局編『朝鮮の治安状況 大正13年12月』(不二出版、2008年)を出典とする[56]
1923年9月1日から12月31日までの間、関東地方から朝鮮半島へ帰還した朝鮮人の内訳は、
東京府6,239人、神奈川県613人、埼玉県29人、千葉県76人、茨城県56人、栃木県98人、群馬県182人となっている
(高警第63号「大正12年自9月1日至12月31日帰還朝鮮人府県別調査」朝鮮総督府警務局、1924年1月12日付)[57]

犠牲者数と弔慰金

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当時の官庁記録としては、司法庁報告書では民間で殺害し起訴された件数として朝鮮人233人、日本人58名、中国人3名[注 5][1]。戒厳業務詳報によれば軍によって殺害された人数は少なくとも朝鮮人39人、内地人27人、軍民共同の殺害による犠牲者として朝鮮人約215名である[1]。内務省は248名、朝鮮総督府東京出張員は見込み数として813名を挙げている。朝鮮人犠牲者には死亡原因が災害か虐殺か区別せず1人200円(日本内地人死者・行方不明者への御下賜金は1人16円)[注 6]の弔慰金が832名[注 7]へ支払われた[58]

被殺者数(司法省)

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官庁記録による殺傷事件被害死者数-平成20年災害教訓の継承に関する専門調査会報告書1923関東大震災【第2編】第4章 第2節 殺傷事件の発生 表4-8[60]
種別 司法省報告書掲載  戒厳業務詳報掲載 合計
起訴事件 警察による 軍通牒の不明 軍隊による 警察・民間人共同
被害者 朝鮮人 内地人(日本人) 中国人 内地人(日本人) 朝鮮人 朝鮮人 内地人(日本人) 朝鮮人
東京 39 25 1 2   27 19 約215 約328
神奈川 2 4 2           8
千葉 74 20     1 12 8   115
埼玉 94 1             95
群馬 18 4             22
栃木 6 2             8
茨城   1             1
福島   1             1
合計 233 58 3 2 1 39 27 約215 約578
  注:戒厳業務詳報掲載の警察民間人共同の被害者のうち約200 は中国人との説あり

被殺者数(公的機関と報道機関)

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被殺者数(朝鮮人のみ)
司法省 内務省 読売新聞  東京朝日新聞 報知新聞
東京 39 63 - 37 -
神奈川 2 1 - 150 -
千葉 74 59 - 62 -
埼玉 94 97 - 166 -
群馬 18 18 - 17 -
栃木 6 10 - 0 -
合計 233 248 300 432 519
  注:司法省1923年11月15日付け、内務省1923年10月22日付け、各紙1923年10月20日付け。
  • 東京朝日新聞は、日本人の被殺者数を東京市内のみで13人、重軽傷者を11人としている[61]

内閣府防災会議報告書

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2008年3月の内閣府中央防災会議の報告書は「殺傷の対象となったのは、朝鮮人が最も多かったが、中国人、内地人も少なからず被害にあった。」[62]「殺傷事件による犠牲者の正確な数は掴めないが、震災による死者数の1~数パーセント」と推定している[62]

  • 内閣府中央防災会議の報告書を引用とした形で、震災の死者・行方不明者約10万5千人[63]のうち、殺傷事件の犠牲者数を「1~数%」と推計しているとして「千人から数千人規模」と報じられることがある[64][65][66][67][9]。報告書の「殺傷事件の犠牲者数」を「朝鮮人の犠牲者」と誤読し「朝鮮人の犠牲者」が「千人から数千人規模」とする報道も見られる[68][注 8]
  • なお、この中央防災会議による報告は有識者が執筆したものであり、日本政府の見解を示したものではない[注 9]

被殺者数(諸説)

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  • 朝鮮総督府警務局は内務省の発表を受け、1923年12月に極秘に独自に見込み数を計算し、朝鮮人被殺者数はおよそ813名であるとしている。その内訳は、東京約300名、神奈川約180名、埼玉約166名、栃木約30名、群馬約40名、千葉約89名、茨城約5名、長野約5名である[70]
  • 朝鮮人の崔承万と吉野作造(朝鮮人への聞き取り調査)は、朝鮮人の被殺者数を2,613名としている[34][71]
  • 上海の大韓民国臨時政府機関紙「独立新聞(金承学社長)」12月5日付で報道された、在日留学生を中心に組織された「在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班」による団報告書では、朝鮮人被殺者数は6,661名としている[73][74]。そのうち3,240名は「屍体さえも探せなかった同胞」であり、死体は確認されていない[73]
    • 金承学調査の内、神奈川県は発見遺体1,162名(突出する発見場所は神奈川鉄橋の500名)、遺体を探せなかった朝鮮人が1,795名、11月25日の調査終了後に来た報告が1,052名とあり、情報が錯綜して実際の人数より多い調査結果であると考えられるという[75]
    • 山田昭次は、内訳を再計算すると6,644名であると指摘している[34]。山田は、独立新聞の6,661名の数字が不正確である原因は官憲の被害隠蔽のためとしている[76]
    • 加藤康男は、吉野作造と金承学の調査の共通の根拠となっている上海仮政府から派遣された「或る朝鮮人紳士」による調査を信じるなら、「関東大震災とその後の火事で死亡した朝鮮人が一人も存在しない」ことになるとして、吉野作造と金承学の被殺者数の数字は事実ではないと述べている[72][要ページ番号]
  • 同じ「独立新聞」12月26日付報道では「横浜だけで1万5千人...2万1,600人余りが殺害された。」と主張している。[77]
  • 在中国英国大使館の関係者から駐日英国大使館に送付された『Massacre of Koreans in Japan』という小冊子に、被殺者数が23,059名と記載されている[78]とされる。
    • 加藤康男は、この文書は社会主義者が関与した「典型的な中国・韓国製の謀略冊子」で、内容は1905年の旅順虐殺事件や後の南京事件の謀略文書を彷彿とさせ、「構成類型と殺人・強姦・暴行の猟奇的表現の類似性」が存在すると述べている[72][要ページ番号]
  • 百地章は、何千、何万人もの朝鮮人が「虐殺」されたなどの話が流布されている件について、明確な根拠がなく、史実とかけ離れた話であると主張している[27]
  • 韓国の聯合ニュースは、2013年11月東京韓国大使館新築移転作業中、関東大震災韓国人犠牲者290名の名簿が初めて見つかったと報じている[79]。日本震災時被殺者名簿286人を調査した結果28人の犠牲者を確認と2015年12月報じられ、第一次調査とあわせて韓国政府認定の関東大震災時虐殺犠牲者は合計40名となったとしている[80]

否定論

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虐殺はなかった」[3]、それらは官憲によるテロリストへの対処や「不逞朝鮮人」等に対する自警団等の正当防衛による殺害が主であるなどの理由により「虐殺に相当する行為ではない」とする主張がある[81][72][要ページ番号][82][27]

  • 加藤康男は、震災時の自警団の活動は基本的に正当防衛であり、「虐殺」ではないとしている[72]。また、当時の「東京府統計」の朝鮮人人口から、各地の警察署等で特別に保護されていた朝鮮人被災者をひくと、不明の人数は約2,700名であるとしており、そのうち下町の朝鮮人家屋の脆弱さから2,000名が震災やその後の火事で死亡したと推測し、「本当に生死不明だった朝鮮人は、800人前後」であろうと推測している。ただし、その800名は実際に放火や暴行、強姦を企てて自警団に殺された者や大韓民国臨時政府から送り込まれたテロリスト集団であったかもしれず真偽は不明であるとしている(1923年11月には皇太子の結婚を狙ったテロ計画があり、また、1932年上海天長節爆弾事件やのちの昭和天皇暗殺未遂事件(虹作戦)の存在からも、実際に朝鮮人のテロ活動は活発であったことがわかると述べている)[72][要ページ番号]
  • 工藤美代子は、国内に潜入していた朝鮮人テロリストが実際に暴動を起こし、それに対して自警団が正当防衛をしたなどによる被殺が主であると主張しており、被殺者の朝鮮人はテロ部隊やゲリラ部隊であったとした上で、朝鮮人の被殺者数はおよそ600- 800名であるとし、「虐殺」を否定している[83][要ページ番号][84]。600- 800名という数字については、東京都近県に住んでいた朝鮮人は9,800名程で、うち約6,800名の朝鮮人が軍や警察によって保護されており、震災後の火災による焼死者や行方不明者が2,800名近く存在していたという推計に基づく[27]


吉野作造が朝鮮人から聞き取り調査をした人数の内訳
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吉野作造が朝鮮罹災同胞慰問班から聴いた朝鮮人の被害、大正十二年十月末日までの被害状況[注 10][注 11]
一、横浜方向    
1.神奈川県橋本町浅野造船所前広場 虐殺(現金五百円強奪) 四十八
2.神奈川警察署内 巡査刺殺
3.程ヶ谷町 虐殺 三十一
4.井戸ヶ谷町 右同(現金二百円強奪) 三十 余名
5.根岸町 右同 三十五
6.土方橋より八幡橋まで至る 右同 百三
7.中村町右同
8.山手町埋地 右同
9.御殿町付近 右同 四十 余名
10.山手本町警察署立野交番所前 右同
11.若屋別荘附近 右同 余名
12.新子安町 右同
13.子安町より神奈川駅に至る 右同 百五十九
14.神奈川鉄橋右同 五百 余名
15.東海道線茅ヶ崎駅前右同
16.久良岐郡金沢村 右同 十二
17.鶴見町右同
18.川崎 右同
19.久保町右同 三十 余名
20.戸部 右同 三十
21.浅間町及浅間山 右同 四十
22.戸山、鴨山 右同 三十
以上屍体埋葬地及数 1.久保山火葬場 千余名(横浜附近被害者)  2.青木町三ツ沢共同墓地 二百名(神奈川附近被殺)  3.金沢村(不詳)  4.茅ヶ崎町旧東海道線路火葬  5.鶴見町、総持寺山内埋葬  6.川崎町当地埋葬又は持って帰国
二、埼玉県方面      
1.川口 虐殺 三十三
2.赤羽荒川 右同 三百
3.大宮 右同 二名
4.熊谷 右同 六十一
5.本庄 右同 八十六[注 12]
6.早稲田村 右同 十七
7.神保原 右同 二十四
8.寄居 右同 十四
9.長沢 右同 十四
三、群馬県      
1.藤岡 虐殺 一八
四、千葉県      
1.習志野軍営倉内 虐殺 十二
2.船橋 右同 三十八
3.法典村 右同 六十四
4.千葉市 右同
5.流山 右同
6.南行徳 右同
7.馬橋 右同
8.田中村 右同
9.佐原 右同
10.滑川 右同
11.成田 右同
12.我孫子 右同
五、長野県      
1.軽井沢周辺 虐殺
六、茨城県      
1.筑波本町 虐殺 四十三
2.土浦 右同
七、栃木県      
1.宇都宮 虐殺
2.恵那須郡 右同
八、東京付近      
1.月島 虐殺 三十三
2.亀戸署内 右同 八十七
3.小松町 右同 四十六
4.寺島請地 右同 二十二
5.寺島警察署内 右同 十三
6.向島 右同 三十五
7.寺島手井駅 右同
8.洲崎飛行場附近 右同 二十六
9.日本橋 右同
10.深川西町 右同 十一
11.押上 右同 五十
12.本所区一丁目 右同
13.大島七丁目 右同
14.大島三丁目活動写真館内 右同 二十六
15.大島八丁目 右同 百五十
16.小松川新町 右同
17.浅草公園内 右同
18.亀戸駅前 右同
19.府中 右同
20.世田ヶ谷、三軒茶屋 右同
21.新宿駅内 右同
22.四谷見附 右同
23.吾妻橋 右同 八十
24.上野公園内 右同 十二
25.千住 右同 十一
26.王子 右同 八十一
右 合計  二千六百十三人 〔東大吉野文庫〕    

「不逞な朝鮮人」の状況

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『関東一帯を騒がした鮮人暴動の正体はこれ 放火殺人暴行掠奪につぎ橋梁破壊も企てた不逞団(記事差止め昨日解除)』(東京時事新報 1923年10月22日付)。検閲による差し止めが解除されると新聞各紙はこうした記事を報じた(山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』、2004年、緑陰書房)。

官憲当局は、各地で朝鮮人の殺害が発生した遠因は「狂暴の鮮人に暴行脅迫放火強姦等の行為があった」ためでもあり、殺害された者のなかには犯罪など悪いことをしたために殺害された「不逞な朝鮮人」もいたなどの声明を、繰り返し発表している[22][86]。実際に、震災の混乱に乗じ、一部の「不逞朝鮮人」により、放火殺人強姦暴行略奪等、多くの犯行が行われている(震災直後の朝鮮人犯罪者の起訴・起訴猶予の犯罪計47件、死亡や逃亡を除く12名が起訴される[19][86][87][88]。ただし、多数の一般朝鮮人は善良であった[86][87]

朝鮮人の犯罪

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海軍火薬廠爆薬部報告書によると、9月2日に朝鮮人2名が北区周辺に放火し1名が逮捕、3日に瀧野川商工学校裏に朝鮮人による放火があり消火、3日午後3時に染井霊園周辺で手榴弾をもった朝鮮人2名を発見するが逃亡、3日午後7時に巣鴨警察署巣鴨周辺で爆弾ありとの通報を受け爆弾処理、4日午後3時30分に北区海軍火薬廠前で朝鮮人が使用する青龍刀を発見し押収、4日午後7時に折戸養育院前で二箇所の放火があり消火、6日午後3時にガソリン2缶をオートバイに積載した無政府主義者の西川が警備を巧みにすり抜け逃亡していたが翌日浦和で捕縛、との記録が残っている[89]

司法省刑事局が『震災後に於ける刑事事犯及之に関連する事項調査書』(以下、刑事事犯調査書)によると、震災直後に朝鮮人が犯人の、起訴・起訴猶予となった犯罪は合計で47件であり、死亡や逃亡を除く12名が起訴されている[19]

一、今回の変災に際し鮮人にして凶暴の行為を為すものあること喧伝せられ、なかんづく大火の原因は鮮人の放火に基づくものにして、兼ねて企図せる不逞計画の一部をこの機会において実現せむとしたるものなりと為す者あり。また、その間社会主義者との連絡ありと為す者なきに非ず、よって極力これが捜査を遂げたるも別表に記する犯行ありたることを認め得るに止まり一定の計画の下に脈絡ある非行を為したる事跡を認め難し。但し過激思想を有する朴烈事朴準植ら十余名が内地人数名と共に不逞の目的を以て秘密結社を組織せる事実あるを発見したるにより之を起訴し、なお重大なる犯罪の嫌疑ありて目下これが取調べ中なり。然れども同人らは震災直後に検束を受けたるを以て震災後における犯罪には直接の関係なきこと明らかなりとす。
「刑事事犯調査書」[19]
二、鮮人の犯罪として明らかなるものは別表に掲記するが如く殺人二件、同未遂二件、同予備二件、放火三件、強盗四件、強盗傷人一件、強盗強姦一件、強姦二件、傷害二件、脅迫一件、橋梁破壊一件、公務執行妨害一件、窃盗十七件、横領三件、賍物運搬一件、流言浮説二件、爆発物取締罰則違反三件、銃砲化薬物取締罰則違反一件の多きを算すれども犯行の当時殺害せられたる者あり、逃れて所在不明なる者あり、又は犯人の不明なるものありて起訴の手続を為したる者は十二名なりとす。
「刑事事犯調査書」[19]

重大な事件

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9月1日、橋梁破壊を企てた朝鮮人一名が逮捕される[87]。同日、朝鮮人数名が強姦未遂の上、略奪している[87]

9月2日朝鮮人4名が少女を輪姦した後殺害し、遺体を荒川に投げ込みピストルを乱射して逃走する事件が起こった[87][90]。同日、午後6時頃本所く仲の郷附近で、朝鮮人による略奪事件が起こった[87]。同日午後9時頃に、ピストルをもった朝鮮人が軍人に発砲し、逃走している[87]。同日午後10時頃自警団が夜警中に、挙動不審な朝鮮人一名が棍棒で襲いかかってきたため、群衆に取り押さえられたが、取調べ中に逃走している[87]

9月3日、朝鮮人一名が、ピストルで日本人を狙撃して殺害し、逃走している[87]。同日、朝鮮人一名が、鉄の棒をもって歩兵に抵抗し、爆弾を投げつけようとして射殺される事件が起こった[87]。同日、朝鮮人一名が、線路の上に避難し眠っている日本人に水を注ぐいたずらをし、大きな混乱が起こった[87]

流言と犯行

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倉持和雄は、流言飛語の発生源は「横浜発生説」、「官憲発生説」、「自然発生説」の3つの説に分類することが出来るとしている[91]。「朝鮮人虐殺事件」研究者の後藤周[注 13]は膨大な資料から流言飛語の発生源を横浜南部丘陵地帯「平楽の丘」と割り出したと主張している[92]安田菜津紀によると、この丘には4万人が避難していたとされている[93]

暴動

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9月1日に「朝鮮人が来襲する」という通報が警視庁にもたらされたが、2日以降も全く朝鮮人が来なかったために虚報であったと判明し[20]、2日の夜には、警視庁から新聞社に、朝鮮人暴動などが流言であることを伝えている[94]。官憲当局は、一部の「不逞な朝鮮人」による暴行等の事件は発生しているとしたうえで、内務省が発表している朝鮮人事件に関する内容が、新聞社により誇大な報道がなされているとし、流言報道の沈静化を図った[22]。 「朝鮮人暴動」に対する警戒体制については、当初は、事実として報道されていたのではないかと推察されている[22]

実際に起こった事件としては、9月1日午後6時-11時に、柳島の呉服屋で、30名の朝鮮人とみられる集団が、店員に暴行を加え略奪し、亀戸署に拘束していたが行方不明となっている[87]

海軍火薬廠爆薬部報告書によると、3日午後3時に染井霊園周辺で手榴弾をもった朝鮮人2名を発見するが逃亡、3日午後7時に巣鴨警察署巣鴨周辺で爆弾ありとの通報を受け爆弾処理、4日午後3時30分に北区海軍火薬廠前で朝鮮人が使用する青龍刀を発見し押収、6日午後3時にガソリン2缶をオートバイに積載した無政府主義者の西川が警備を巧みにすり抜け逃亡していたが翌日浦和で捕縛、との記録が残っている[95]。 また、朝鮮人による流言浮説の事件が2件発生している[19]

加藤康男は、1919年以降朝鮮人テロリストによるテロ行為が発生していることからも当時の大韓民国臨時政府(上海仮政府」はまぎれもなくテロリスト集団であったことが明らかだとした上で、特にロシア革命以後社会主義者の扇動によって過激化していたことも事実であるとし、実際に、9月2日を目処に東京を中心とした大規模な騒乱事件が計画されており、大震災発生によりテロ行為が前倒しされる形で行われようとしていた形跡がある、と述べている[72]

放火

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海軍火薬廠爆薬部報告書によると、9月2日に朝鮮人2名が北区周辺に放火し1名が逮捕、3日に瀧野川商工学校裏に朝鮮人による放火があり消火、4日午後7時に折戸養育院前で二箇所の放火があり消火、との記録が残っている[96]

「刑事事犯調査書」には、以下の3件の事件が、起訴、起訴猶予妥当としての記録に残っている。

堀留署:1日午後八時半:黒上衣白ズボンを着し中肉中背四十才前後但し犯人氏名不詳鮮人一名男木造物置底辺に放火し附近に延焼す[19]
「刑事事犯調査書」[19]
月島署:1日午後9時頃:月島自警団長加藤重六等取調の結果、自称高等学校生と金某(鮮人)の放火したるものなること判明[19]
「刑事事犯調査書」[19]
西平野署:1日夜:深川区月島自警団長加藤重深川区東光町一番地□□(二字不明)沼田辰五郎等取調の結果氏名並に住所不詳鮮人の放火に依ること判明[19]
「刑事事犯調査書」[19]

井戸に毒

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東京日日新聞は、「朝鮮人が井戸に毒を投じた」とする誤伝が、川崎方面から起こったと報じている[88]

実際に起こった事件は、朝鮮人による飲料水供給所へ毒薬投了未遂であり[97][87][90]、真偽は不明であるが朝鮮人が井水に投毒目的で侵入したが未遂で終わった事件も報じられている[98]

9月3日午前9時頃、飲料水供給所近くで日本衣を着た朝鮮人、自称「李王源」が取り押さえられ、毒物の亜硫酸を所持していたのを発見されるが、食塩と言い張るため、群衆に無理やり飲まされて死亡した[97][90]。犯人はその場で死亡し、官憲がその場におらず事件という扱いにはなっていない[97][87][90]

毒殺投入の目的を有したりと認むへき日本衣を着せる一鮮人毒薬亜硫酸七、八匁を懐中し本所□徳右衛門町菊川方面焼跡残留者か唯一の飲料水供給所として貴重せる菊川町の水道消火栓附近を彷□中取り押へらる該鮮人は用向及行先□を秘し殊に亜硫酸を食塩なりと強弁したる為群衆より強ひて亜硫酸を嚥下せしめられ忽ち悶死す
「刑事事犯調査書」

日本人の囚人が悪事の限りを尽くす

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一部の「不逞な朝鮮人」のみならず、日本人の囚人に関する流言も新聞で流布されている[99]。 関西や東北の新聞に「横浜刑務所の(日本人の)囚人たちが看守の剣を奪って市民を襲い、強盗強姦など悪事の限りを尽くしている」という報道が掲載され未だに訂正されていないが、完全な虚偽報道であり、実際は逃走者は0人で横浜刑務所の囚人による悪事は発生していない[99][100][101]。「家族の安否確認とともに、できるだけ善行を施し、明日のこの時刻までに戻ってくること」と言い渡し、横浜刑務所の柿色の受刑服を着た受刑者を一時解放したところ、人命救助をしたり、地震により激しく損壊した横浜港埠頭での危険な荷揚げ作業を率先して従事するなどの善行を施した者も多数であり、24時間から遅れた者はいたものの全員が帰還し脱走者はいなかった[101]

流言拡散に関する批判

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  • 大畑裕司と三上俊治は、地方紙などを含む新聞が、内容が不徹底な状態で流言報道を大々的に行ったために、流言が拡大したと述べている[22]
  • 法学博士の上杉慎吉は、同年10月、『国民新聞』で、9月2日から3日にわたり、震災地一帯に流言が伝播し、関東全体が動乱の情勢に至ったのは、警察の「大袈裟なる宣伝」によるものとし、警察が「無根の流言蜚語を流布して民心を騒がせ、震火災の惨禍を一層大ならしめたるに対して」責任を負うべきだと指摘・批判している[23]
  • 震災直後の事件に関する伝聞について、流言が政府公認の事実と認定されるとともに、朝鮮人の迫害を扇動する内容の電文が全国に発信されたという批判がある[102][103][104]
  • 大島美津子は、政府当局者による打電や言明が、暴動をあたかも事実であるかのように信じさせ、朝鮮人に対する極度の憎悪を生み出す結果となったとし、当時、半信半疑だったが、警察情報だから信じたという人が多いと述べている[13]
  • 金富子は、山田昭次編『朝鮮人虐殺関連新聞報道史料』によると、一部の朝鮮人による犯罪報道等の内容は不透明であり、山田の言葉を引用して司法省による「でっち上げ」であると主張している[105]
  • 工藤美代子は、自警団が自衛のために朝鮮人テロリスト集団を捉え死亡させた事件などについても、流言蜚語により「朝鮮人虐殺」へと変容されていると主張している[83][要ページ番号]

事件

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東京の麻布で結成された自警団。竹槍などで武装している[106][107]

震災直後から自警団、武装した民間人による、一部の「不逞鮮人」や警察に収容されている朝鮮人らへの殺傷行為が発生している。日本人や中国人も殺害されている[1]。内務省調べでは朝鮮人被殺者は231名であるが、過剰防衛により起訴された日本人は367名である[27]

「不逞鮮人」の不逞行為の裏に「社会主義者やロシアの過激派が大なる関係を有する」とされ[46]社会主義者や労働運動家、無政府主義の指導者ら、無政府主義者の大杉栄伊藤野枝、大杉の6歳の甥・橘宗一らが殺された甘粕事件、社会主義者10名などが殺された亀戸事件も起きている[7]加藤康男は、ロシア革命以後社会主義者の扇動によって運動が過激化していたことも事実であるとし、実際に、9月2日を目処に東京を中心とした大規模な騒乱事件が計画されており、大震災発生によりテロ行為が前倒しされる形で行われようとしていた形跡がある、と述べている[72]

東京府

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朝鮮人の被殺者数は司法省は39名(日本人は25名、中国人は1名)、内務省は63名、東京朝日新聞は37名。

北区に設置されていた海軍火薬廠爆薬部の報告書によると、9月2日に朝鮮人2名が北区周辺に放火し1名が逮捕、3日に瀧野川商工学校裏に朝鮮人による放火があり消火、3日午後3時に染井霊園周辺で手榴弾をもった朝鮮人2名を発見するが逃亡、3日午後7時に巣鴨警察署巣鴨周辺で爆弾ありとの通報を受け爆弾処理、4日午後3時30分に、北区海軍火薬廠前で朝鮮人が使用する青龍刀を発見し押収、4日午後7時に折戸養育院前で二箇所の放火があり消火、6日午後3時にガソリン2缶をオートバイに積載した無政府主義者の西川が警備を巧みにすり抜け逃亡していたが翌日浦和で捕縛、との記録が残っている[108]

朝日新聞によると、米国汽船に乗って清水港から東京の被災者見舞いに来た静岡市民ら80名が9月4日横浜で上陸にあたって朝鮮人暴動についての注意を受けたが、それを聞いて、船内に6名の朝鮮人がいるのを発見したとして、直ちに同米国船中において2人を殺害し4人を海に投げ込み、さらに近くにいた中国人母娘2人も海に投げ込んだとされている(少なくとも朝鮮人は全員死亡と報じられている)。乗客らは一団となって上陸したものの、途中、鶴見で自警団に誰何され、今度は彼ら見舞い人団の1人が殺害されたとされている。これは和歌山県人であった。[109]

亀戸事件

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品川

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北海タイムズは、横浜方面から鉄砲や日本刀で武装した300人ほどの朝鮮人が爆弾を投げて暴れ、住民では防戦できず第三連隊が出動して鎮圧されていると報じている[110][83]

神奈川県

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朝鮮人の被殺者数は司法省は2名(日本人は4名、中国人は2名)、内務省は1名、東京朝日新聞は150名。 金承学は、神奈川県では1,162名の遺体が発見され、その内500名は神奈川鉄橋(現・青木橋)で発見されたと主張している[75]。金は、この調査ではさらに所在不明者1,795名、調査終了後の報告1,052名と主張し、当時の混乱で実際より多く数えられたと神奈川県の研究チームは主張している[75]。『横浜市史』「関東大震災と復興事業」には、神奈川鉄橋で起きたといわれている「500人虐殺」に関して「鉄道橋における500人の殺害は軍隊が配置されていた拠点であり、組織的殺害をうかがわせる」と記載されている[111]。これに対し、後藤周の調査では500人虐殺を裏付ける証拠の発見には至らないとしており、2023年に出版された後藤周の著書『それは丘の上から始まった 1923年横浜の朝鮮人・中国人虐殺』(ころから株式会社)においての扱いはない。

震源に近かった神奈川県横浜市は震災により甚大な被害を被った地域である[112]

東京新聞によると、2012年に神奈川県川崎市の実態調査をした元市職員らの市民グループは、横浜市のようには犠牲者が出なかったことについて「当時の川崎はまだまだ人口の少ない田舎。『朝鮮人が放火した』というデマでパニック状態になった東京や横浜と比べ、火災が極めて少なかったことも影響している」と主張している[113]

東京新聞によると、2023年に、市民団体「関東大震災時朝鮮人虐殺の事実を知り追悼する神奈川実行委員会」が、1923年11月21日付で神奈川県知事安河内麻吉から警保局長に宛てた「震災ニ伴フ朝鮮人並ニ支那人ニ関スル犯罪及保護状況其他調査ノ件」という報告文書を発見し、57件145人の殺害事例が記載されていた[114]。この文書の素性については姜徳相が約10年前に古書店で発見し、2021年に亡くなるまで文書内容を裏付ける実地調査などを続けていたと主張している[114]。尚、新資料の朝鮮人被害者145人について氏名不明のものが多く「鮮人ト認メラルル被害者中ニハ内地人ノ一部含有シ居ルモノト認メル」と日本人被害者が一部含まれると注記されている[115]

横浜

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公的記録によると、横浜では日本人を殺害した事件が1件起訴されているのみである[93]

大日本石鹸株式会社専務の細田勝一郎は、大勢の「不逞の朝鮮人」が「腕を組んで市中を横行し、掠奪をほしいままにするは元より、婦女子二三十人宛を拉(らつ)し来たり随所に強姦するがごとき非人道の所行」を白昼堂々と行っていたのを目撃している[116][117]。横浜は東京市とは異なり官憲や軍隊の人数が不足していたため、監獄の日本人の囚人も開放し看守の指揮により「不逞の朝鮮人」掃討で大戦闘となり、朝鮮人100余人をたおしたが日本人の警備隊にも十余人の負傷者が発生したとしている[116][117]

栗原佳子は、横浜市は被殺者の半数を占めると言われているが、司法省の発表は「ゼロ」であったと述べている[118]

埼玉県

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朝鮮人の被殺者数は、司法省記録では94人(日本人は1名)、内務省記録では97人、東京朝日新聞は166人としている。「新編埼玉県史」、「埼玉県行政史」、「埼玉県警察史」では文献や当時の新聞記事にもとづき、殺害された朝鮮人について、166~240人と推測している[119]。『増補保存版かくされていた歴史-関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺-』によると193名(未確認を合わせると240名)、森田武編『明治・大正・昭和の郷土史』によると県内全体で200名以上としている[120]

熊谷

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毎日新聞によると、熊谷は自警団による殺害が県内で最初に発生したとされている[121]

東京新聞によると、9月4日、避難した朝鮮人約200人がたどり着いたが、荒川に近い現在の久下付近において4~5人が投石により殺害された。中心市街でも16人が命を落としたとされている。1973年に当時の知事らがまとめた報告書「かくされていた歴史-関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件」は、現在の熊谷市内での「確認できた最低数」の犠牲者数を57人としている[122]。大原墓地には、震災当時に熊谷町(当時)の助役をつとめ、自身も殺害目撃者だった新井良作が熊谷市長をつとめていた1938年に、市内数カ所の寺に分かれ埋葬されていた朝鮮人の遺体が合葬されたことをきっかけとして建立された、朝鮮人犠牲者の供養塔がある[122]

毎日新聞によると、久下の東竹院には、震災の2年後に建立され朝鮮人犠牲者のものと思われる供養塔がある[121]

ジャーナリストの渡辺延志が防衛省防衛研究所史料室で発見した熊谷連隊区司令部報告書「関東地方震災関係業務詳報」には、警察署で保護するために移送されていた四十数人の朝鮮人が「殺気立てる群衆の為めに悉(ことごと)く殺さる」などの記録がある[123][124]

神保原事件

9月4日、本庄警察署から群馬へトラックで移送される朝鮮人が、県境で群馬側に通過と引継ぎを拒否され、警察により本庄警察署に戻る際、神保原村で暴徒に襲撃された殺傷事件[125]

本庄事件

埼玉県本庄市に戦後建てられた慰霊碑(本庄事件

9月4日、本庄警察署で警察が収容している朝鮮人と、神保原事件により群馬への移送を中止して戻った朝鮮人を、暴徒が殺害した事件[126][127]

妻沼事件

9月5日夕方、上京途中の秋田出身の日本人青年が朝鮮人と誤認された結果、殺害された事件。一旦は派出所に連行され警察の調べで疑いが晴れたが、思わず「万歳」と喜んだところ、集まっていた群衆が激高し警察の前で惨殺され、死体を利根川に投げ入れられた。この事件によって十四人が検挙され公判に付された[128][129]

寄居事件

9月5日夜、寄居警察署内に保護されていた朝鮮人の飴売り具学永が、用土村の自警団の襲撃により殺害された事件[128]

片柳事件

9月4日2時頃、片柳村(現さいたま市見沼区)で朝鮮人の姜大興が、警戒中の自警団に殺害された事件[128]

千葉県

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朝鮮人の被殺者数は司法省は74名(日本人は20名)、内務省は59名、東京朝日新聞は62名。『千葉県の歴史 通史編 近現代2』(2006年3月27日、千葉県史料研究財団編)によると96名超とされている[120]

福田村事件

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検見川事件

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東京新聞の西田直晃によると、検見川事件は、沖縄・秋田・三重出身者が犠牲となったとされる[130]。東京新聞によると、5日、避難してきたいずれも20代だった沖縄・秋田・三重出身の日本人男性3人が自警団によって朝鮮人と誤認され、駐在所に連行されたとされている。3人は身分証を提示して日本人だと主張したものの、自警団が彼らを殺害し、花見川に遺棄したとされる[131]

群馬県

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朝鮮人の被殺者数は司法省は18名(日本人は4名)、内務省は18名、東京朝日新聞は17名。

群馬県では、1923年(大正12年)9月3日、佐波郡郡長から町村長宛ての通達で、「東京府下震火災に際し囚人多数脱出し、又不逞鮮人暴行有之たるやに聞き及び候処、警戒の厳重となるに随い、是等不逞の徒何時当地方へ入り込むやも測りがたく候条、この際警備隊を組織し、警戒を厳重ならしむるよう」(県行政文書)とし、この結果、県内で469の自警団が組織された[132]。--

4日には、高崎駅で朝鮮人が自警団の検問にかかり、棍棒で殴られ、入院した[133]。同日、群馬県は、朝鮮人暴動などは事実無根であるとし、沈静化を図ったが、効果はなかった[133]

藤岡事件

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朝日新聞によると、群馬県多野郡の自警団は、9月4日同郡新町の鳶職親方の元にいた朝鮮人工夫16人をとらえ藤岡警察署に引渡し、さらにその前9月2日には同郡鬼石町の自警団が菓子行商人をとらえ引渡していたが、藤岡署では行商人に不審点なく釈放したところ、5日200余名の自警団員がその抗議に押しかけ、取締りの外出から戻って来た署長と談判、署長は逃走、自警団員は残りの署員に迫り、ついにその看視する留置場の檻を開け、16人を殺害したとされている[134]。さらに翌日、日野村の自警団員数十名が朝鮮人工夫1名をとらえ藤岡警察署に引渡しに来たが、先の行商人の釈放をめぐって抗議、投石を始め、応援に来ていた警察官を含む警察署員30名は逃走、自警団員らは署ばかりか署長官宅にまで押しかけ衣類を荒し、窓ガラスを壊し、工夫も殺害されているとされる[134]。この際、署の会計書類も持ち去られていて、事件にウラがあることも疑われると主張している[誰によって?][135][133]

議会の動き

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1923年(大正12年)12月、衆議院開会した[136]。同月14日の田渕豊吉無所属)、15日の永井柳太郎憲政会)、23日の高柳覚太郎南鼎三などが、朝鮮人の殺害について政府を問い質した[136]

田渕議員は、「私は内閣諸公が最も悲しむべき所の大事件を一言半句も此点に付て述べられないは、非常なる憤慨と悲しみを有する者であります……千人以上の人が殺された大事件を不問に宜しいのであるか」と述べたが、山本権兵衛首相は答弁を保留した[137]。翌15日、永井議員は、前日の田渕の発言を政府が黙殺したことを問題とした[138]。また、この事件について、「全責任は、挙げて自警団に存するが如き観あることは、国民思想の向上発展の為に、本員は之を悲しまざるを得ないのであります」と述べた[138]

同日、貴族院では、男爵・藤村議員は、政府や軍、在郷軍人団、青年団を称賛した[138]。貴族院では、朝鮮人の殺害は取り上げられなかった[138]

また、永井議員は、朝鮮人暴動の流言について「当時の内務省の最高官から発せられましたので、其命令に接しました所の、各地に於ける地方長官は、又、其命令を管下の郡役所に伝へ、管下の郡役所は又、之を管下の町村に伝達することに努めました結果、彼の自警団の組織を見るに至った」と述べ、あわせて、朝鮮統治の責任を追及した[138]

山本首相から陳謝の言葉は出ず、「目下取調進行中」との答弁で打ち切りを図った[139]。ただ、内相後藤新平からは、「不幸にして犯罪人でなき者の害を被った者が絶対に無いと云ふことは勿論言ふ能はざることであります」と、殺害の事実を認める発言があった[140]

加藤康男は、後藤新平の行動について、現在進行形で朝鮮独立運動家によるテロの脅威や凶悪犯罪については戒厳令の軍力で削ぎつつ、自警団を武装放棄させて、民心を安定させることを想定していたと述べている[141]

当時の証言など

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  • 黒澤明の自伝『蝦蟇の油——自伝のようなもの——』の中では、当時13歳だった黒澤の関東大震災時の体験が語られている[142][143]。その中に、黒澤の父親が長い髭を生やしているという理由で朝鮮人に間違われ暴徒に囲まれた話や、黒澤が井戸の外の塀に書いたラクガキを町の人々が「朝鮮人が井戸へ毒を入れた目印」だと誤解し騒ぎになるというエピソードがある[142][144]
  • 作家の芥川龍之介はこの自警団に参加し活動をしていたことが分かっているが、「或自警団員の言葉」(『文藝春秋』1923年10月号「侏儒の言葉」より)において、自警団の異常な殺戮行為に対して「自然は唯冷然と我我の苦痛を眺めている。我我は互に憐れまなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは――尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である」と批判をしている。また、芥川の「大震雑記」[145](『中央公論』1923年10月号)の五の章では、朝鮮人への虚偽の噂を信じる民衆を「善良なる市民」と揶揄する等、震災後の一連の殺害事件に対して批判的視点を持っていた事がわかっている[146]
  • 菊池寛は芥川龍之介を𠮟りつけた。芥川が、かの大火の原因やボリシェヴィキの手先という朝鮮人に関する流言飛語を話題にしたからである。芥川龍之介「大震雑記」に次のような記述がある。「僕は大火の原因は○○○○○○○○さうだと云つた。すると菊池は眉を挙げながら、『嘘だよ、君』と一喝した。…しかし次手にもう一度、何でも○○○○はボルシェヴィツキの手先ださうだと云つた。菊池は今度も眉を挙げると、『嘘さ、君、そんなことは』と叱りつけた。」(言論統制による伏字部分は朝鮮人を表わす用語)[146]
  • 流言に皮肉をぶつけていた芥川龍之介や流言の嘘を見抜いていた菊池寛とは異なり、鎌倉で罹災した久米正雄は流言を真に受けて夜も眠れず「鎌倉震災日記」に流言を聞いた夜は「一挺の鉈をたよりに」警戒したと書いている[147]
  • 「こやつが爆弾を投げたり、毒薬を井戸に投じたりするのだなと思うと、私もつい怒気があふれて来た。(略)私も握り太のステッキで一ッ喰(くら)はしてやろうと思って駆け寄っていった」(染川藍泉、俳人・十五銀行本店庶務課長)[148]
  • 竹久夢二都新聞に連載していた挿絵付きルポルタージュ「東京災難画信」の9月19日掲載分で「子供達よ。棒切を持って自警団ごっこをするのは、もう止めましょう」と呼び掛けている[149]
  • 徳富蘇峰は震災1ケ月後、國民新聞のコラムで「今次の震災火災に際して、それと匹す可き一災は、流言飛語災であつた」と断言した。
  • 志賀直哉は日記「震災見舞」に次のように綴った。「丁度自分の前で、自転車で来た若者と刺子を着た若者とが落ち合ひ、二人は友達らしく立話を始めた。…『―鮮人が裏へ廻つたてんで、直ぐ日本刀を持つて追ひかけると、それが鮮人でねえんだ』…『然しかう云ふ時でもなけりやあ、人間は殺せねえと思つたから、到頭やつちやつたよ』二人は笑つてゐる。」[150]
  • 沖縄出身の歴史学者・比嘉春潮は、当時、淀橋(現・新宿区)に住んでいた[151]。震災後、数日経った夜、自警団が自宅を訪問し、「朝鮮人だろう」「ちがう」「ことばが少しちがうぞ」「僕は沖縄の者だから君たちの東京弁とはちがうはずじゃないか」と押し問答になった[152][153]。身の危険を感じ、淀橋署に奄美大島出身の巡査がいたことから、警察で白黒つけようと持ちかける[154]。しかし、連れて行かれたのは近所の交番で、ここでも同じやりとりを繰り返しているうちに、日本刀を持った自警団の一人が「ええ、面倒くさい。やっちまえ」と怒鳴った[155][153]。それでも何とか淀橋署に行くことになり、無事で済んだ[156][153]。また、行方が分からなくなっていた甥の春汀は、「朝鮮人だ」と叫ぶ自警団にこん棒で殴られ、頭に包帯を巻き、血糊をこびりつかせた状態で飯田橋署に留置されていた[157][153]
  • 『風よ鳳仙花の歌をはこべ』(1992年、教育史料出版会)には、軍隊による殺害行為として「四ツ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人くらいずつ朝鮮人をしばって並べ、軍隊が機関銃でうち殺したんです。まだ死んでいない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね。そして、橋の下手のところに三カ所ぐらい大きな穴を掘って埋め、上から土をかけていた」[148]、「…女も2〜3人いた。女は…ひどい。話にならない。真っ裸にしてね。いたずらをしていた」と記述されている[158]
  • ある一兵士の日記には次のようなことが書かれている。「9月3日 雨。午前1時頃、呼集にて、また東京に不逞鮮人がこの機に際し非常なる悪い行動をしつつあるので(井戸に毒薬投入、火災の先だって爆弾投下、強姦等やるので)、それを制動せしめるため、38騎銃携行、拳銃等も実弾携行し、乗馬でゆくもの徒歩でゆくもの、東京府下大島に行く。小松川方面より地方人も戦々兢々とて、眠りもとれず、各々の日本刀、竹やり等を以って、鮮人殺さんと血眼になって騒いでいる。軍隊が到着するや在郷軍人等非常なものだ。鮮人と見るやものも云わず、大道であろうが何処であろうが斬殺してしまうた。そして川に投げ込んでしまう。余等見たのばかりで、20人一かたまり、4人、8人、皆地方人に斬殺されてしまっていた。」[159]
  • 「四、五百坪の空地に、裸体に等しい約二百五十体の死骸が遺棄されていた」「目をそむけないではいられない無残なものばかりだった。(略)なんという残酷さ、あのときほど、ぼくは日本人であることを恥ずかしく思ったことはなかった」(田辺貞之助[148]
  • 「とにかく鮮人に対して、あの時日本人の行ったことは、これは何とも弁解のしようのない野蛮至極のものであった。ああ云う場合、この国の人間には、野蛮人の血が流れているのではないかという気がする。」(広津和郎[160]
  • 「そうしてグルリと朝鮮人をとり囲むと何ひとついいわけを聞くまでもなく問答無用とばかりに手に手に握った竹やりやサーベルで朝鮮人のからだをこづきまわす。 それもひと思いにバッサリというのでなく、皆それぞれおっかなびっくりやるのでよけいに残酷だ。頭をこづくもの、服に竹やりを突きたてるもの、耳をそぎ落すもの………二百以上の木のすべての幹に血まみれの死体をつるす。………」(田畑潔の証言「真っ赤な川」)[161]
  • 西崎雅夫が民衆から集めた証言によると「首・手首を切り落とす」「電柱に縛り付ける」「投石で虐殺」「火あぶり」などが行われている[158]
  • 西崎雅夫『八広に追悼碑ができるまで―東京の朝鮮人虐殺の実態―』によると、「神田で妊婦を刺したら『アボジ(お父さんの意味)』と叫んだ、と聞いた」(神田羅祥允の証言)、「腹を割かれた妊婦の死体と、陰部へ竹の棒を刺された女性の死体があった」(大島高梨輝憲の証言)、「知り合いの奥さんが雑木林で凌辱され虐殺された」(古川後藤順一郎の証言)[158]
  • 流言に惑わされた自警団は「朝鮮人が変装している」として警察官や軍人をも襲撃したことが吉村昭『関東大震災』(1973年、文藝春秋)に記録されている[148]
  • 加藤康男は、岳父の池田恒雄から、朝鮮人暴動が実際に起こっていたことや、自警団などによる殺害は正当防衛のようなものだったという当時の体験談を聞いていると述べている[72][要ページ番号]
  • 江口渙は騎兵第13連隊の越中谷利一から直接聞いた話として、二子玉川近くの中州で三四百人の朝鮮人が騎兵第13連隊に夜襲を掛けられ包囲殲滅されたが、その際ピストルや日本刀で抵抗するものもいた。五六百人の朝鮮人が習志野捕虜収容所に連行され塹壕を掘らされ機関銃で一斉に射殺され埋められた。埼玉県妻沼の利根川河原で三百人の朝鮮人が地元住民に惨殺された。などの話を紹介している(関東大震災亀戸事件四十周年犠牲者追悼実行委員会 編『関東大震災と亀戸事件』1963年)[162]。実際の妻沼事件の犠牲者は日本人1名[128]であるなど、いずれも現実にあった事件としては確認できないが、朴慶植の『天皇制国家と在日朝鮮人』でも引用されている[163]

新聞

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  • 1923年(大正12年)9月8日、秋田魁新報は、時評欄で「内地人のみ聖人君子であり鮮人は盗妬の末孫であるとし、その罪を一身に背負うはすこぶる迷惑千万なことと思われる。殊に彼らの中に不逞の企てをなせる者ありという理由のもとに鮮人とさえ見れば警察は鵜の目鷹の目で警戒して尚足らず一種の私刑を加ふるものすらあるは、朝鮮将来の統治上及政策上重大なる累を及ぼすものではなくして何であろうか」と指摘した[164]
  • 1923年(大正12年)10月6日、時事新報の自警団裁判に関する記事によると、被告自警団は「無警察状態に乗じて最も残酷な殺人、又は掠奪婦女子に暴行を加へた」ということである[165]
  • 1924年(大正13年)2月10日やまと新聞東京スポーツの前身)は「虐殺鮮人数百名の白骨、子安海岸に漂着 昨日の暴風に打揚げられて 当局面倒がつて責任のなすりあひ」という記事の見出しを付け、震災時に殺害されて海へ捨てられた朝鮮人の遺体が半年後に横浜の子安海岸へ漂着したのであると報じた[166]

政府見解

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岸田内閣

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岸田文雄内閣内閣官房長官松野博一は、震災発生100年を2日後に控えた2023年8月30日、首相官邸での記者会見において、共同通信の記者から、関東大震災の記録について「当時、被災地ではデマが広がり、多くの朝鮮人が、軍、警察、自警団によって虐殺されたと伝えられています。政府として朝鮮人虐殺をどう受け止め、何を反省点としているのか」などの質問を受けた[167][168][169]。これに対して、松野は「政府として調査した限り、政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらないところであります」と述べている[167][168][169]

翌31日の記者会見において、松野は、例えば2009年に中央防災会議に設置された「災害教訓の継承に関する専門調査会」が取りまとめた関東大震災に関する報告書の中に、朝鮮人虐殺に関する記載があるとの質問を受けた[168][170][9]

被災地では朝鮮人暴動の流言に基づいて民間の自警団による朝鮮人に対する暴行や殺傷事件が起きていた。混乱の中、真偽を確かめられないまま、官憲も流言を事実と誤認し、行動した。このことが官憲自身の手による朝鮮人殺傷事件を引き起こし、また、自警団の暴走を助長する結果となった。[24]

これに対して、松野は、これは有識者が纏めたもので政府見解を示したものではないと回答した[69]。(なお、この報告書の作成者の一人である東大の歴史学者鈴木淳教授によれば、報告書は、政府機関が当時公表した情報からどれだけのことが言えるかという、当時の政府発表の焼き直しであり、非常に限定的な範囲のものであり「最低限」のものだとしている[171]。)

横網町公園における朝鮮人犠牲者追悼式典

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追悼碑と追悼式典

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関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑(1973年9月29日建立)

1973年6月、日朝協会東京都連合会の呼びかけにより、「関東大震災50周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会」が結成された。代表委員には、日朝協会会長の渡邉佐平、相川理一郎、飯村実、大森良三、千田是也藤森成吉、壬生照順、山田四郎、山本忠義の9名と東京都議会の全会派の代表が就任した。実行委員会は追悼碑建立と調査に担当が分かれ、青山良道が碑建設実行委員長となった[172][注 14]。同年9月29日、「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」が墨田区の都立横網町公園に建立された[172][173][174]。当時の美濃部亮吉知事はじめ、思想信条を超えた幅広い市民が浄財を寄せ、600人近くの個人、250近くの団体が協賛した。追悼碑は完成後、都に寄付された[172][175]

朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会の名による追悼碑文は東京都との交渉を経て作成され[注 15]、都議会の全会派の賛同を得て追悼碑は建立された[172]

横網町公園内の東京都慰霊堂では毎年9月1日に震災犠牲者を供養する大法要が営まれてきた。翌年の1974年には同じ日、各市民団体などの共催により、追悼碑前で第1回「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」が開かれた。

地方自治体の対応

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東京都

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第1回関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典に、当時の都知事である美濃部亮吉は、「51年前のむごい行為は、いまなお私たちの良心を鋭く刺します」と追悼のメッセージを寄せた。以来、歴代東京都知事が追悼式典に追悼文を送ることは恒例となった[176][177]

2016年7月に東京都知事に就任した小池百合子は、2017年8月、式典へ追悼文を送ることを止めた[177]。なお、就任1年目の2016年には送付していた[177]。追悼文送付取りやめは2017年8月24日に各紙が報じたことで明らかとなり[178][179]、8月30日、墨田区長の山本亨が小池に追随して同じく送付を取りやめたことが報じられた[180]

2017年3月2日の東京都議会本会議で、自民党の古賀俊昭都議が、犠牲者数について異論があるとし、「今後は追悼の辞の発信を再考すべきだと考える」と求めた[177]。古賀は「日本及び日本人に対する主権及び人権侵害が生じる可能性があり」として加害者側の権利を守るために事実を究明し、震災の3年前1920年の国勢調査で1府3県(東京府、埼玉県、千葉県、神奈川県)の全朝鮮人人口は3385人であるから追悼碑の犠牲者数「六千余名」が疑わしいと主張した[181]。これに対し、小池知事は「追悼文は毎年、慣例的に送付してきた。今後は私自身がよく目を通し、適切に判断する」と応じていた[177]

2022年12月の都議会[182]では、立憲民主党の中村洋都議が、追悼文中止事案を念頭に置き虐殺事件に対する小池知事の認識について質問したのに対し、小池知事の回答は、例えば国連が「第二次大戦中に命を失った全ての人に追悼を捧げる日」(2004年)の翌年「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」(2005年)を設置した取り組みにみられるような現代の人道的価値観とは異なる。すなわち小池知事は「災害と様々な事情で亡くなられたすべての方々に哀悼の意を表している」と答弁した[183]。翌2023年も追悼文の送付は見送られた[184]。しかし2023年春季と秋季に開催された慰霊堂の大法要に変化が起きた。例年の大法要は震災と戦災の犠牲者にのみ言及していた小池知事が2023年春季・秋季の大法要では「極度の混乱の中で犠牲となられた」人々にも言及した[185][186]。「極度の混乱」の文言は2016年の知事初年度追悼文に用いて以来の言及となった[185]。小池は2024年以降に追悼文の再開を予定していない[187]

『コリアワールドタイムズ』によれば、小池知事が「9月と3月に都慰霊堂で開かれる大法要で、関東大震災、先の大戦で犠牲となられたすべての方に哀悼の意を表している」ことを追悼文不送付の理由に挙げたことに対し、「自然災害による震災の被害者と、人の手によって殺害された犠牲者は性格が異なる」との批判がある[12]

反対運動

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2017年から毎年、保守系市民団体「日本女性の会 そよ風」は、横網町公園の碑文に刻まれている犠牲者数「六千余名」[注 16]には根拠がないとして、慰霊碑の撤去を要求している[65]。「そよ風」は2016年(6月19日)のブログに、古賀都議と面会して追悼碑文の「六千余名」の問題について報告した旨を掲載している[188]。「そよ風」が主張する犠牲者数は「233人(司法省の記録にある、加害者が特定され起訴された事件に限った数)」である[65]

「そよ風」は追悼式典と同日同時間帯に会場の近くの公園で独自に集会を開催している[65]。2019年9月1日の集会では、「朝鮮人が、震災に乗じて、略奪・暴行・強姦などを頻発させ、軍隊の武器庫を襲撃したりして、日本人が虐殺されたのが真相」であり、「殺害の犯人は不逞鮮人や朝鮮人コリアン」と主張している[189]。この「不逞鮮人」という発言が東京都の人権尊重条例[注 17]に基づくヘイトスピーチと認定されている[190]。2023年9月1日には慰霊碑前での集会を予定したが、開催時刻直前になって、抗議者の集団と「そよ風」メンバーとの間で罵倒の応酬が発生し、衝突を避けるため警察から制止されて慰霊碑前での集会を断念した[65]

当時の写真・誤用写真と絵

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  • 関東大震災にまつわるフェイク画像が多数出回っている[191][192]。元共同通信社勤務の写真編集者の沼田清は、震災直後に、写真をねつ造したり改ざんした「絵葉書」や「写真」を販売する業者がいたせいで、多数のフェイク画像が出回っていると指摘している[192]。また、震災後の混乱によってチェック機能がきちんと働かなかったため、報道写真のなかにも、捏造写真が存在すると指摘している[192]。写真の誤りは画像と説明の両方で起きていたり、キャプションの誤りも生じており、1923年当時の写真説明で5W1H(いつ,どこで, だれが,なにを,どうした,どのように)を備えていない写真は、説明次第で誤った写真として掲載された事例が多数あるとしている[192]宮武外骨の『震災画報』、中央気象台の『関東震災調査報告』、渡邊金三提供写真、吉村昭の『関東大震災』、石井敏夫の『絵はがきが語る関東大震災』、Dr. Gennifer Weisenfeld の『Imaging Disaster』 [University of California Press(2012)](邦訳は『関東 大震災の想像力』[青土社(2016)])(現在著者は誤用写真の掲載の事実を承知済)、江戸東京博物館の展示(現在は誤用写真は撤去済)などに、捏造写真が真実の写真として掲載・展示されていた[192]
  • 松尾尊兌は、姜徳相と琴秉洞編集による『現代史資料6関東大震災と朝鮮人』の巻頭に掲載されている虐殺関係写真には、被服店の大焼死体郡の誤用写真など、明らかに朝鮮人殺害と無関係な写真が複数掲載されていると主張しており、また、掲載資料についても本当は3日付けであるにも関わらず姜らが2日付であると信じているなどをはじめ、写真や資料の混入、調査資料の不足・偏りが多数であるなどと批判している[193]
  • アジア民衆歴史センターの久保井規夫は、関東大震災で朝鮮人を殺害した場面の写真は1枚だけが本物であり、それ以外はすべて偽物であるとしている(ただし、本物と主張している写真の詳細情報は不明)[194]
  • 写真家岡田紅陽が数十体の女性遺体を撮影した一枚の写真は、殺害の惨状として時々使用されている。岡田は東京府の依頼で震災の被害状況を記録していた。この写真は時々誤解され、明治44年(1911年)に発生した吉原大火の被災者との誤解や[195][注 18]広島の原爆被爆者との誤解がなされている[注 19]。遺体写真には「新吉原公園之惨状」とキャプションが付けられたヴァージョンと、キャプションがないヴァージョンが存在する[195]。岡田の私家版アルバムには「吉原公園魔ノ池附近」と記されているのみで、遺体の身元は不明である。関東大震災当時の新吉原公園は、大火災から逃れて吉原遊廓遊女たちが新吉原公園の花園池(弁天池)に飛び込んで焼死や溺死をし、その人数は30人とも600人ともいわれている[199]。「吉原公園魔ノ池附近」の写真などを収録した『大正大震災大火災惨状写真集』は震災89日後に発売の後、戦前日本の検閲制度に基づきただちに発禁となった。
  • 震災直後、柳瀬正夢堅山南風、萱原白洞をはじめ、小学生に至るまで、虐殺を題材とした絵が描かれた[200]
  • 1924年、改造社から出された『大正大震火災誌』に、吉野作造の「労働運動者及社会主義者圧迫事件」が掲載されている[201]。この項の最後には、編者の「お断り」として、「法学博士吉野作造氏執筆「朝鮮人虐殺事件」及び内田魯庵氏氏〔ママ〕執筆「自警団と殺傷事件」の二篇は、何れも豊富なる資料と精細なる検討に依つて出来た鏤骨苦心の好文字であつたが、其筋の内閲を経たる結果遺憾ながら全部割愛せざるの已むなきに至つた」と記されている[201]

題材とした作品

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映画

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  • 『大虐殺』 - 1960年の日本映画。ギロチン社を題材とした作品だが、序盤で関東大震災の朝鮮人虐殺が描かれている。
  • 道〜白磁の人〜』 - 2012年の日本映画。植民地朝鮮にいる主人公の浅川巧が日本にいた妻の弟から関東大震災とその直後の朝鮮人虐殺事件について聞くシーンがある。
  • 金子文子と朴烈(パクヨル)』 - 2017年の韓国映画。主人公の朴烈金子文子が遭遇した関東大震災とその直後の朝鮮人虐殺事件が描かれている。
  • 菊とギロチン』 - 2018年の日本映画。関東大震災後の大正時代末期が舞台。朝鮮人虐殺を生き延びた朝鮮出身の遊女が登場する。
  • ある男』 - 2022年の日本映画。平野啓一郎の同名小説の映画化作品。
  • 福田村事件』 - 2023年の日本映画。福田村事件の被害者は日本人であるが、この映画では事件に至るまでの朝鮮人・社会主義者に対する流言が言及されており、別件の朝鮮人犠牲者も描写されている。

記録文学

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  • 江馬修『羊の怒る時 ─関東大震災の三日間』筑摩書房ちくま文庫(え-21-1)〉、2023年8月7日。ISBN 978-4-480-43904-8 
  • 吉村昭『関東大震災』文藝春秋文春文庫〉、2004年8月10日。ISBN 978-4-16-716941-1 (電子版あり)

ノンフィクション

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  • ノエル・F・ブッシュ『正午二分前〈外人記者の見た関東大震災〉』早川書房〈ハヤカワ・ノンフィクション〉、1967年8月31日。NDLJP:2990329 (要登録)

フィクション

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脚注

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注釈

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  1. ^ 内閣府中央防災会議の「災害教訓の継承に関する専門調査会」が2008年3月にまとめた報告書「1923 関東大震災【第2編】」には以下のように記されている[9][1]
    「関東大震災時には横浜などで略奪事件が生じたほか、朝鮮人が武装蜂起し、あるいは放火するといった流言を背景に、住民の自警団や軍隊、警察の一部による殺傷事件が生じた。」
    「自然災害がこれほどの規模で人為的な殺傷行為を誘発した例は日本の災害史上、他に確認できず、大規模災害時に発生した最悪の事態として、今後の防災活動においても念頭に置く必要がある。」 — 『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1923 関東大震災【第2編】』内閣府中央防災会議、2008年3月。
  2. ^ 緊急勅令第396号[15]
  3. ^ 緊急勅令第399号[16]
  4. ^ 内鮮高等係について、『警察辞典』(1926年)は次のように説明している。「朝鮮併合せられてより、鮮人の内地渡航者年々増加し、次第に民族的自覚の途につける彼等は、或は自ら、或は他の煽動に動かされ、民族自決を叫んで過激手段に出づるものまた少なからず。此等に対しては其の思想を善導し、且つ保護するの要あるを以て、警視庁総監官房特別高等課内に一係を設け内鮮関係の高等警察事務を掌ることとなれるなり」[49](表記は新字体とした)
  5. ^ この233人という数字は起訴された事件の被害者数であり、当局に認知されていても起訴されていない事件については考慮されていない[58]
  6. ^ この違いは資金の出所が違うからである。日本人への御下賜金は日本政府から(予算総額1000万円を分配したので一人当たりの額面が小さくなった)であり、朝鮮人への弔意金は朝鮮総督府からである。
  7. ^ 朝鮮総督官房外事課が作成した報告書「関東地方震災時に於ける朝鮮人問題」には、「自警団に殺害された鮮人の数は混乱の際であり死体は一般の死体と共に火葬に附されたから死因も弁別せず従って的確なる数を得ること困難であるが朝鮮地方官憲で精細に調査した結果に依れば圧死者焼死者被殺者及行方不明となった鮮人は総体で832名である、鮮人の居住場所と焼死者の多かった事実に徴し自警団に殺害された者はその二三割を超過することはあるまいと推定せられるのである」と書き記されている[59]
  8. ^ 報告書は「殺傷の対象となったのは、朝鮮人が最も多かったが、中国人、内地人も少なからず被害にあった。」としており、「殺傷事件の犠牲者」には内地人・中国人も含まれるので注意
  9. ^ 2023年8月31日に松野博一官房長官が示した見解[69]
  10. ^ 吉野作造は本郷教会の教会員。
  11. ^ 吉野作造は『中央公論』1923年11月号に寄稿した報告書「朝鮮人虐殺事件」で、「次に朝鮮人の被害の程度を述べる。之れは朝鮮罹災同胞慰問班の一員から聞いたものであるが、此の調査は大正十二年十月末日までのものであって、其れ以降の分は含まれて居ないことを注意しなければならぬ」と書き記した[85]
  12. ^ 朝鮮罹災同胞慰問班の記述では八十(80)となっており、6人の差がそのまま吉野作造と朝鮮罹災同胞慰問班の数の違いになっていること、これ以外の数字は同じであること、などから、吉野作造が「80」を「86」と誤記した可能性が高い。
  13. ^ 後藤周(ごとう あまね)、1948年生まれ。京都大学卒業。元・横浜市立中学校教員。1970年代より朝鮮人虐殺の研究に着手。
  14. ^ 調査実行委員長には高橋磌一が就いた。調査の結果は一冊の書籍にまとめられ、1975年9月に『歴史の真実―関東大震災と朝鮮人虐殺』として現代史出版会から出版された[172]
  15. ^ その過程において虐殺主体としての「官憲」の文言が除外された[172]
  16. ^ 千葉県では船橋市立馬込霊園関東大震災犠牲同胞慰霊碑が6300余名としている。
  17. ^ オリンピックの理念である「人権尊重」が浸透した都市となるために2018年10月に制定された(正式名称「東京都オリンピック憲章にうたわれる人権尊重の理念の実現を目指す条例」)。
  18. ^ 明治44年4月9日の吉原大火の死者は8人といわれている。吉原大火現場を見回っている人々はもっと厚手の衣服を着ている[196]
  19. ^ 原爆はフランスの新聞ル・モンドによる誤解。ル・モンドは「Hiroshima : ce que le monde n'avait jamais vu」と題した2008年5月10日の記事に写真を掲載し、のちに訂正した[197][198]
  20. ^ 平野は三島由紀夫ファンであったことを否定はしないが壮年期の彼は概ね中道左派の政治思想である[202]。政治的右派の三島由紀夫による北杜夫『楡家の人びと』絶賛や、同じく右派で同時代作家の石原慎太郎による都知事としての朝鮮人犠牲者追悼式典への追悼文送付など、右派もまた当事件を顧みる姿勢がある。

出典

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参考文献

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公的資料

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書籍

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    • 加藤康男『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(ワック、2014年8月、ISBN 4898317030)は工藤が文庫版にするにあたって加筆改定したうえで夫名義で再出版したもの。
  • 百地章『緊急事態条項Q&A: いのちと暮らしを守るために』明成社、2016年9月20日。ISBN 978-4905410393 
  • 西崎雅夫 編『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』筑摩書房〈ちくま文庫(に-19-1)〉、2018年8月10日。ISBN 978-4-480-43536-1 
  • 加藤直樹『九月、東京の路上で ―1923年関東大震災 ジェノサイドの残響―』ころから、2014年。ISBN 978-4907239053 
  • 加藤直樹『TRICK トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち』ころから、2019年。ISBN 978-4907239398 
  • 新井勝紘『関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を読み解く』新日本出版社、2022年8月10日。ISBN 978-4-406-06681-5 
  • 佐藤冬樹『関東大震災と民衆犯罪 ─立件された一一四件の記録から』筑摩書房〈筑摩選書 0262〉、2023年8月15日。ISBN 978-4-480-01780-2 (電子版あり)
  • 姜徳相、山本すみ子 編『神奈川県 関東大震災 朝鮮人虐殺関係資料』三一書房、2023年9月。ISBN 978-4380230042 
  • 後藤周 著、加藤直樹 編『それは丘の上から始まった 1923年 横浜の朝鮮人・中国人虐殺』ころから株式会社、2023年9月15日。 
  • 安田浩一『地震と虐殺 1923-2024』中央公論新社、2024年6月19日。ISBN 978-4-12-005686-4 

論文・記事

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関連項目

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外部リンク

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