不逞鮮人
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不逞鮮人(ふていせんじん)とは、戦前の日本において、韓国併合後の日本政府に不満を持つ内地の朝鮮出身者や、満洲の朝鮮人反体制派[1]、朝鮮独立運動家[2]、犯罪者をさした。
概要
[編集]1910年の日韓併合以後、それまでの呼称の「韓人」(大韓帝国人)にかわり、「鮮人」という表現を用いるようになる[3]。 1912年2月の寺内正毅朝鮮総督暗殺未遂事件で、「不逞事件ニ依ッテ見タル朝鮮人」という文書が作成されたのが、「不逞」という表現をはじめに用いた例とされる[3]。
1919年の三・一独立運動以降、テロを行う朝鮮人が恐怖と不安の対象となり、「不逞鮮人」という表現が登場し、一時期は流行語にもなった[4]。
今村鞆によると、「排日鮮人」という語を韓国統監府の伊藤博文が嫌って公文書に表記することを禁止したため、警務局の誰かによって造られたという[5]。また戦前には「怪鮮人」[6]と共に新聞等でも公に使われていた。
金富子は、現代この用語を使用することは差別語とみなされるとしている[7]。
関連事件
[編集]- 李王世子暗殺未遂事件で犯人の徐相漢は不逞鮮人として報道された[8]。
- 関東大震災の際、不逞鮮人による事件が起こっていると報じられた。2019年に開催された関東大震災朝鮮人虐殺事件追悼集会に対抗し、日本の保守系団体の集会参加者が、碑文に刻まれている犠牲者数には根拠がないとして撤去を要求するスピーチのなかでこの単語を使用した件に対して、翌年東京都は都人権尊重条例に基づき「不逞」などの単語の使用が「ヘイトスピーチ」であると認定した[9]。
- 小樽高商軍事教練事件では不逞鮮人が起こした暴動を鎮圧するとの演習想定に対して批判が殺到した。
関連作品
[編集]脚注・出典
[編集]- ^ 小林諦亮「国立国会図書館デジタルコレクション 不逞朝鮮人の正體」『大陸ローマンス』三水社、1927年 。
- ^ 黄善英「揺動と不動 : 中西伊之助の「不逞鮮人」と「北鮮の一夜」」『比較文学・文化論集』第20号、東京大学比較文学・文化研究会、2003年3月、67-79頁、doi:10.15083/00026586、ISSN 0911341X、NAID 120003324835。
- ^ a b 劉永昇「<不逞鮮人>とは誰か~関東大震災下の朝鮮人虐殺を読む(11)造語<不逞鮮人>はこうして誕生した…抵抗運動弾圧と間島出兵」、アジアプレス・ネットワーク、2022年2月2日、2024年9月19日閲覧。
- ^ アンドレ・ヘイグ「中西伊之助と大正期日本の「不逞鮮人」へのまなざし : 大衆ディスクールとコロニアル言説の転覆」『立命館言語文化研究』第22巻第3号、立命館大学国際言語文化研究所、2011年1月、81-97頁、doi:10.34382/00002602、ISSN 0915-7816、NAID 120005199015。
- ^ 今村鞆『国立国会図書館デジタルコレクション 歴史民俗朝鮮漫談』南山吟社、1930年、389-390頁 。
- ^ 京城日報1921年8月17日、神戸又新日報1923年4月25日
- ^ 金富子『関東大震災時の「レイピスト神話」と朝鮮人虐殺――官憲史料と新聞報道を中心に』『大原社会問題研究所雑誌』 (669), 1-19, 2014-07 法政大学大原社会問題研究所
- ^ 神戸又新日報 1920/7/7。萬朝報 1920/6/18
- ^ “【動画】ヘイト団体と反対派で公園騒然、朝鮮人虐殺の追悼碑前「帰れ」「警察が妨害」 関東大震災100年”. 東京新聞. (2023年9月1日)
- ^ 外地の日本語文学選集3「朝鮮」に収録。黒川創 編『朝鮮』新宿書房〈<外地>の日本語文学選3〉、1996年。ISBN 4880082163。