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間部詮芳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
間部詮芳
時代 江戸時代中期から後期
生誕 明和3年11月14日1766年12月15日
死没 文政6年4月24日1823年6月3日)(※異説あり)
別名 虎吉、源十郎、図書助
幕府 江戸幕府 書院番→西丸書院番?
主君 徳川家治家斉家慶(世子時代)
氏族 間部氏
父母 父:間部詮番、母:安部信久の娘
兄弟 詮芳安部昌信(信義)、女子、女子、女子
間部詮茂の娘)
詮寛、俊章(僚之助、鉄太郎)、詮徴、女子、女子、女子
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間部 詮芳(まなべ あきふさ)は、江戸時代中期から後期の旗本赤坂間部家当主・間部詮番の長男。妻は越前鯖江藩間部詮茂の娘・輝。江戸城西の丸殿中にて松平外記に斬られ死亡した(千代田の刃傷)。

生涯

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明和3年(1766年)、間部詮番の長男として生まれる。天明2年(1782年)12月、詮芳17歳の時、赤坂間部家の遺領と家督を継ぎ、小普請入りする[1]寛政元年(1789年)6月、間部詮茂の娘・輝と結婚する[2]。寛政7年(1795年)10月、書院番になり、翌寛政8年(1796年)12月、西丸にて将軍世子時代の徳川家慶に仕えた[1]

文政6年(1823年)4月22日、西丸書院番詰所2階休息所にて、詮芳は松平外記に斬られ重傷を負い、翌々日の4月24日に死亡したという[3][4]。家督は長男の詮寛が継いだ。

補足

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間部詮芳の生没年は史料によって異なり、生年:安永7・8年(1778-1779年)、没年:文政6年(1823年)4月24日とする『 浮世の有様』という史料と[5]生年:明和3年(1766年)11月14日、没年:天明9年(1789年)11月25日とする「間部家文書(「御用状」)」・「間部家譜」[6]という史料の2つに大別される。本項では両者を他の史料と照らし合わせたうえ、詮芳の生没年を生年:明和3年(1766年)11月14日、没年:文政6年(1823年)4月24日とした。

脚注

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  1. ^ a b 続群書類従完成会 1966, p. 68.
  2. ^ 竹内 1998, p. 653.
  3. ^ 矢野 1917, p. 43.
  4. ^ 4月24日には下総国の詮芳の知行所に事件のことが伝達されている(「御用留」利根町教育委員会『利根町史』(2)史料集 利根町、1983年、307頁)。
  5. ^ 矢野 1917, pp. 40–43.
  6. ^ 竹内 1998, p. 650,653.

参考文献

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  • 小川恭一編『江戸幕府旗本人名事典』第3巻・第4巻 原書房、1989年。
  • 続群書類従完成会『新訂寛政重修諸家譜』第二十二 八木書店、1966年。
  • 竹内信夫「所謂「本所間部家」と「赤坂間部家」について」『地域史研究と歴史教育:森山恒雄教授退官記念論文集』 亜紀書房、1998年。
  • 矢野太郎編『浮世の有様』1(巻1-2)<国史叢書> 国史研究会、1917年。
  • 利根町教育委員会『利根町史』(2)史料集 利根町、1983年。

外部リンク

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