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長谷川昭道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

長谷川 昭道(はせがわ しょうどう、文化12年12月29日1816年1月27日) - 明治30年(1897年1月30日)は江戸時代の武士、兵学者。通称は深美。号は戸隠舎、一峯。

生涯

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信濃国松代藩士・長谷川政次の子として生まれる。松代三山と並び称される鎌原桐山から漢籍を、山寺常山から兵学を、佐久間象山から西洋砲術を学び、若くして頭角を現した。天保10年(1839年)藩主真田幸貫の嫡子真田幸良の近習役となり、江戸で佐藤一斎に学んだ。弘化2年(1844年)藩の郡奉行兼勝手役となり、藩の財政整理に当たった。嘉永5年(1852年)から藩校文武学校の建設に努め、完成後は藩士に兵学を指導した。慶応元年(1865年)には上洛して京都留守居役となった。

昭道は陽明学を重んじ、慶応3年(1867年)の大政奉還後は攘夷の建白書を提出し、勤王の大義を唱えた。明治元年(1868年)には、学校掛となって大学校設立の建言を行い、その準備を進めた。また皇学所・漢学所御用係となり、京都の学政に当たった。同2年(1869年)太政官権大史となり、同3年(1870年)皇居明治天皇に拝謁し、戊辰戦争での功績も含めて、知藩事真田幸民から賞典禄35石と感情を賜った。没後の大正4年(1915年)に正五位を遺贈された[1]

著書に『皇道述義』や『九経談総論評説』などがある。

脚注

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  1. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.36

参考文献

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  • 「信濃人物志」文正社、1922年
  • 「長野県歴史人物大事典」郷土出版社、1989年