長母寺
長母寺 | |
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本堂 | |
所在地 | 愛知県名古屋市東区矢田3-13-71 |
位置 | 北緯35度11分49.14秒 東経136度56分41.76秒 / 北緯35.1969833度 東経136.9449333度座標: 北緯35度11分49.14秒 東経136度56分41.76秒 / 北緯35.1969833度 東経136.9449333度 |
山号 | 霊鷲山 |
宗旨 | 臨済宗 |
宗派 | 東福寺派 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 治承3年(1179年) |
開基 | 山田重忠 |
正式名 | 霊鷲山長母寺 |
札所等 | 尾張三十三観音28番 |
文化財 | 木造無住和尚坐像、無住道暁筆文書(重要文化財) |
法人番号 | 8180005001431 |
長母寺(ちょうぼじ)は、愛知県名古屋市東区矢田3-13-71にある臨済宗東福寺派の寺院。山号は霊鷲山。本尊は阿弥陀如来。尾張萬歳の発祥地として知られる[2]。
歴史
[編集]中世
[編集]かつてこの地は尾張国山田郡だった。治承3年(1179年)にこの地の領主であった山田重忠(山田氏)の開基により創建された。当初は天台宗に属しており亀鐘山桃尾寺と号した。
弘長3年(1263年)に無住一円が入寺して以降禅宗寺院となり、山号・寺号が現在の霊鷲山長母寺に改められ、一時末寺93ヶ寺を数えるほど隆盛した。また、無住はこの寺で『沙石集』のほか『正應年中萬歳楽』を著し、これが尾張萬歳の起源となったとされる[3]。
中世には代々武家の帰依を得て北条氏・足利氏・織田氏などから寺領を寄進され、文禄年間(1593年 - 1596年)の太閤検地によって寺領が没収され一時衰退した時期もある。
近世
[編集]江戸時代前期の天和2年(1682年)、尾張藩二代目藩主徳川光友の命により、禅僧・雪渓恵恭が再興している。
明和の大洪水
[編集]かつて、矢田川橋から菅田あたりは一面大きな池となっていた。矢田川は長母寺の南を流れていたため、長母寺と宝勝寺(現:守山区)とは地続きであった。明和4年(1767年)7月、大雨(明和の大洪水)による矢田川決壊に伴い、矢田川が長母寺と宝勝寺の間を押し破り、流路が変わったことで守山から切り離された。
近代
[編集]なお、長母寺付近を流れる矢田川は、1868年(明治元年)、1896年(明治29年)、1903年(明治36年)、1911年(明治44年)、1925年(大正14年)と、明治以降になっても度々洪水を起こしている。1891年(明治24年)10月28日の濃尾地震によって本堂が倒壊したが、1894年(明治27年)に方丈形式で本堂が再建された[2]。絵師の蓑虫山人は晩年を長母寺で過ごし、墓所も長母寺にある。
現代
[編集]1999年(平成11年)11月18日には本堂、山門、庫裏が登録有形文化財に登録された。
文化財
[編集]重要文化財
[編集]登録有形文化財
[編集]- 本堂 - 1894年(明治27年)竣工[5][2]。木造平屋建、瓦葺[2]。
- 山門[6]。木造、瓦葺[7]。三間一戸の薬医門である[7]。
- 庫裏[8]。切妻造、妻入、桟瓦葺[9]。桁行9間、梁間5間[9]。
交通
[編集]- 名鉄瀬戸線矢田駅から徒歩で約5分。
- 名古屋市営地下鉄名城線・名古屋ガイドウェイバスガイドウェイバス志段味線(ゆとりーとライン)ナゴヤドーム前矢田駅から徒歩で約10分。
脚注
[編集]- ^ 『郷土鳥羽見』名古屋市立鳥羽見小学校、1979年
- ^ a b c d “長母寺本堂”. 文化遺産オンライン. 2024年9月28日閲覧。
- ^ 元守山村・長母寺 名古屋市守山区ちょっと歴史散歩
- ^ a b “国指定文化財”. 名古屋市. 2016年7月17日閲覧。
- ^ “長母寺本堂”. 国指定文化財等データベース(文化庁). 2016年7月17日閲覧。
- ^ “長母寺山門”. 国指定文化財等データベース(文化庁). 2016年7月17日閲覧。
- ^ a b “長母寺山門”. 文化遺産オンライン. 2024年9月28日閲覧。
- ^ “長母寺庫裡”. 国指定文化財等データベース(文化庁). 2016年7月17日閲覧。
- ^ a b “長母寺庫裏”. 文化遺産オンライン. 2024年9月28日閲覧。
参考文献
[編集]- 「長母寺」『尾張名所図会 第四巻』、1844年
- 『守山区誌』守山区制50周年記念事業実行委員会、2013年
- 『郷土鳥羽見』名古屋市立鳥羽見小学校、1979年
外部リンク
[編集]- 「なごやのまち今昔 長母寺」『ニュースレター』名古屋都市センター、2016年3月、105号 ISSN 1341-6820