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長崎重芳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

長崎 重芳(ながさき しげよし、1914年 - 1997年)は、日本のバレーボール選手バレーボール指導者。元バレーボール全日本選手、元バレーボール日本男子代表監督。元日本バレーボール協会理事。

“重砲“と呼ばれた猛スパイクで、戦前最高の選手と謳われたバレーボーラー。“球神“とも“日本バレーの父“とも呼ばれた[1]広島県広島市出身。59(約180センチ)、21(約80キロ)(中学4年時)。

来歴

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戦前

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広陵中学(現広陵高校)で野球をするつもりだったが、親の反対に遭い1927年、広島二中(現広島観音高校)に進学。陸上競技で大活躍したことで、排球部(バレーボール部)に勧誘された。多田徳雄下で黄金期を創った神戸高商(現神戸大学)の中心選手・高橋哲雄鎔米二の指導を受け、中学上級生並みの体格と人並み外れた運動神経で、すぐに当時の9人制バレー、エースポジションである中衛左に入ると、2年時・14歳で早くも全日本候補となる。

1929年、3年時にはチーム初の全国優勝(第4回全国中等排球選手権大会)をもたらした。以降1931年卒業までこの大会を3連覇。さらに同年中学の部が新設された明治神宮体育大会国体の前身)も制した。ドライブ性の強キル(スパイク、当時はアタックといった)は、3人掛かりでブロック(当時はストップといった)にいっても止められず、相手前衛の指を骨折させたともいわれ、名前をもじり重砲(強力な威力の火砲、キャノン砲など)と呼ばれ後世まで語り草となった。劣勢になるとボールを長崎に集める攻撃は“オール重砲”と恐れられ、この後ゆくところ優勝をもたらした。1930年、16歳にして第9回極東選手権競技大会全日本選手候補に選抜される[2]

その後は、早稲田大学政治経済学部に進学。広島二中の2学年先輩・赤城功が創部した早稲田大学排球部を、関東大学バレーの雄とした。1933年には、広島二中クラブのエースとしても日本一となった。当時の全国のバレーボール選手の目標とされ「その高き峰を打ち破るため精進を重ねた」といわせた。

1934年、第10回極東選手権競技大会全日本選出。

当時の日本バレーの盟主・呉水雷倶楽部と全日本排球選手権大会(全日本選手権)で1934年から3年連続決勝で当たり1935年、呉水雷の4人揃った鉄壁ブロックを力ずくで打ち砕き、前田豊らと全日本排球選手権大会(全日本選手権)で日本一[3]。早大の第一期黄金期を創った[3]

1936年には、日本大学バレー界として初の海外遠征(大連-奉天-ハルビン-京城)にも参加。

1937年早大卒業後は海外雄飛し、朝鮮鉄道管理局(朝鮮総督府鉄道局(鮮鉄))でも優勝した。

戦後

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戦争で日本バレーは長く中断したが、長崎は戦後も芸陽クラブ、広島二中クラブで42歳まで現役選手を続けた。選手を兼任し坂上光男、前田豊らと復興なった日本バレーの代表的指導者として活躍。また日本バレーボール協会の常任理事・重鎮幹部としても、西川政一岡田英雄今鷹昇一、坂上、前田らと日本バレーの舵取り役を担った。

1954年、戦後初めて結成された全日本の主将として香港遠征。

1955年、第1回バレーボール選手権(東京)で極東式(9人制)男子監督として、日本初の国際大会金メダルを獲得。

1957年、第3回世界青年友好大会(モスクワ)コーチ兼全日本選手。この頃世界の趨勢であった国際式(6人制)を導入するか、日本に馴染んだ極東式(9人制)を続けるかでバレー界は紛糾したが、9人制に未練を残す大多数の関係者に対して、6人制移行を先頭切って主張、6人制推進のリーダー格となった。

1958年第3回東京アジア競技大会6人制全日本男子監督となってから、特に高いネット、長身の相手に決定的なスパイクを打ち込むには、体力・跳躍力を強化することが基本条件であると、本格的な基礎体力づくりを取り入れた。この大会も6人制として初優勝。

1960年、日本バレーが初めて世界レベルの大会に参加した第4回男子世界選手権リオデジャネイロ)の全日本男子監督を務めた。

1962年、第5回世界選手権(モスクワ)ではヘッドコーチを務めた。

1962年第4回ジャカルタアジア競技大会6人制・9人制では、全日本男子監督として金メダル。この年広島であった全日本の合宿で、専売広島(現JTサンダーズ)の19歳・猫田勝敏を全日本に抜擢した。

1963年、強化本部男子部コーチとして、半年間フランス代表チームを指導。日本バレーの世界進出、その飛躍期に於いて強化に奔走した。それでも、“東洋の魔女”と呼ばれ大ブームを起こした女子バレーと比べて参加国が多い男子バレーは、長崎の監督在任中は、世界レベルでの上位進出は成らなかった。しかし、のちの監督・坂上光男、松平康隆らによって後年、男子バレーも世界の頂点に立った。

晩年は、広島県バレーボール協会会長、広島工業大学教授などを務めた。

受賞歴

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脚注・出典

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  1. ^ 広島大学医学部創立三十周年記念事業会編『広島大学医学部三十年史』1975年、628頁
  2. ^ 図説、36頁
  3. ^ a b 図説、37頁

参考文献

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  • 前田豊、松平康隆、豊田博『図説バレーボール事典』講談社、1967年11月。 
  • 百万人のバレーボール、前田豊著、報知新聞社(1961年) 
  • スポーツの科学的指導1、バレーボール 松平康隆ほか著、不昧堂書店(1969年7月) 
  • バレーボール 豊田博著、ベースボール・マガジン社(1973年6月)
  • 東京大学バレーボール部五十年史、東京大学バレーボール部五十年史編纂委員会(1975年7月)
  • 広島バレーボール50年のあゆみ、広島県バレーボール協会(1977年12月)
  • バレーボール、前田豊著、旺文社(1978年)
  • 東大バレーボール 佐々木先生の時代、東京大学排球部創設五十周年記念誌刊行会(1982年9月)
  • 京都大学バレーボール部60年史 笠井晶二編、京都大学バレー部(1988年3月)
  • 廣島二中排球部史、同校OB会(1989年)
  • 日本バレーボール五輪秘話/東洋の魔女、小泉志津男著、ベースボール・マガジン社(1991年)
  • 同/ポスト東洋の魔女の激闘(1991年)
  • 広島スポーツ史 河野徳男著、財団法人広島県体育協会(1974年5月)
  • 広島スポーツ100年、金枡晴海著、中国新聞社
  • 白球の飛跡 JTバレーボール部60年の歩み、日本たばこ産業広島支店、JTバレーボール部OB会(1992年3月)

外部リンク

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