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長坂貞一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
長坂 貞一
ながさか ていいち
生年月日 1891年12月15日
出生地 愛知県碧海郡西端村(現・碧南市
没年月日 (1969-01-05) 1969年1月5日(77歳没)
出身校 愛知県立農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校
所属政党 無所属
称号 藍綬褒章[1]
勲五等瑞宝章[2]

豊田市長(挙母市長)
当選回数 2回
在任期間 1956年2月19日 - 1964年2月18日
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長坂 貞一(ながさか ていいち、1891年明治24年)12月15日[3] - 1969年昭和44年)1月5日)は、日本の政治家愛知県豊田市(挙母市)の市長を2期務めた。

来歴

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愛知県碧海郡西端村(現・碧南市)出身。呉服屋を営む杉浦喜六の四男として生まれた[4]。1909年(明治42年)、愛知県立農林学校(現・愛知県立安城農林高等学校)卒業[5]。小学校教員になったのち、1912年(大正元年)12月に農林省森林主事に任官。営林署技手として千葉、茨城、岐阜の各県に勤務し、1929年(昭和4年)に退職[2]

額田銀行勤務を経て、1933年(昭和8年)に挙母町役場の書記となる。トヨタ自動車工業(現・トヨタ自動車)の誘致に参画し、庶務課長、振興課長などを務めた[2]

1945年(昭和20年)、助役に就任。渡辺釟吉市長の下で市制施行に力を尽くし、1951年(昭和26年)3月1日に挙母市が誕生する。

1956年(昭和31年)1月6日、挙母市長の中村寿一が任期中に死去[6]。これに伴って同年2月19日に行われた市長選に立候補し初当選した[7]

1957年(昭和32年)、工場誘致条例を制定し、工場誘致に乗り出すとともに、市内小中企業に対しては、組合組織による団地結成を呼びかけ、2つの工業団地を造成した[2]

豊田市に市名変更

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1959年1月1日、挙母市は「豊田市」に市名変更した。

1958年(昭和33年)1月29日、挙母商工会議所の杉浦定治会頭をはじめとする商工会議所同志一同による請願書「挙母市を豊田市と市名変更の件」が、市議会議長宛てに提出される[8]

市の財源は、あたかも、せんせんと湧出ずる泉のように、くめどもつきぬ潤沢さであるといわれているが、それとてトヨタ自動車工業株式会社の躍進と興隆あってのことで昨年四月天皇皇后両陛下を奉迎した栄光と歓喜は当市の千載に銘記するべき誇りである。(略)
挙母という地名は珍しい由緒のある地名であるがこれを正しく読む人はおそらく全国には僅少であろう。(略)
郵便物その他にそれぞれ豊田市何町と記載されるようになれば、視聴覚通じてトヨタ自動車工業株式会社を宣伝し、期せずして一〇〇%の宣伝効果をあげる要因となることを確信する。 — 請願書「挙母市を豊田市と市名変更の件」、1958年1月29日。

市議会はこれを受けて、同年5月17日の議会において請願書を正式に採択することを決議。長坂は直ちに地方自治法第3条第3項の規定に基づいて条例を作り、桑原幹根知事に「市の名称変更の許可申請書」を提出した。

しかし議場の外では、市名変更に対する激しい反対運動が展開された。初代市長の渡辺釟吉ら3名を発起人とする挙母愛市同志会が結成され、6月12日に同団体による市民決起大会が開かれる。会場では賛成、反対両派のヤジ、怒号が乱れ飛び、その後各地区での反対集会が9月12日までに70余回行われた。反対派は市名変更の議決(6月24日)の翌日から反対署名運動を始めたが、県は同年7月29日に変更申請を許可し、1959年(昭和35年)1月1日をもって挙母市は豊田市に市名変更した[8]

1960年(昭和35年)2月の市長選は、市名変更に反対した市民、青年会、婦人団体の推す元衆議院議員の本多鋼治との一騎打ちとなり、小差で再選を果たした(長坂11,843票、本多10,580票)[9]

1963年(昭和38年)12月、大正の終わり頃から作りためていた短歌160首、随想、市政回顧などを内容とする『人生のつれづれ』を自費出版[10]。1964年(昭和39年)2月の市長選は高齢の故をもって出馬せず、2期で引退[11]。同年10月21日、藍綬褒章を受章。1968年(昭和43年)12月15日、豊田市名誉市民に推挙される[1]

1969年(昭和44年)1月5日、死去。同年、勲五等瑞宝章を受章[2]。77歳没。

脚注

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  1. ^ a b 豊田市名誉市民”. 豊田市役所 (2019年1月1日). 2019年3月24日閲覧。[リンク切れ]
  2. ^ a b c d e 豊田市教育委員会、豊田市史編さん専門委員会編『豊田市史 人物編』豊田市役所、1987年3月1日、675-676頁。 
  3. ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、249頁。
  4. ^ 中部日本新聞』1956年2月21日付朝刊、三河版、4面、「市財政の生字引 挙母新市長、長坂氏 〝工場誘致には自信〟」。
  5. ^ 『日本の歴代市長 第二巻』歴代知事編纂会、1984年11月10日、502頁。 
  6. ^ 『中部日本新聞』1959年1月6日付夕刊、5面。
  7. ^ 新修豊田市史編さん専門委員会編『新修豊田市史 資料編 現代Ⅰ』豊田市役所、2015年3月、107頁。 
  8. ^ a b 『豊田市史 四巻』豊田市役所、1977年3月1日、343-351頁。 
  9. ^ 愛知新聞』1960年2月16日、1面、「豊田市長に長坂氏 接戦で本多鋼治氏が惜敗」。
  10. ^ 東海タイムズ』1964年1月13日。
  11. ^ 『豊田市史 四巻』豊田市役所、1977年3月1日、43頁。 

参考文献

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  • 長坂貞一『人生のつれづれ』弘益印刷、1963年12月。