鍋島直賢 (白石鍋島家)
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 宝暦11年8月29日(1761年9月27日) |
死没 | 文化4年3月18日(1807年4月25日) |
改名 | 直容→直賢 |
別名 | 直次郎、山城 |
墓所 | 佐賀県佐賀市田代本行寺 |
主君 | 鍋島重茂→治茂 |
藩 | 肥前佐賀藩 |
氏族 | 鍋島氏 |
父母 | 父:直右 |
兄弟 | 直昭(養兄)、直賢 |
妻 | 正室:於加(鍋島直員の娘) |
子 | 直章 |
鍋島 直賢(なべしま なおかた)は、江戸時代中期から後期の肥前国佐賀藩士。白石鍋島家第5代当主。
略歴
[編集]宝暦11年(1761年)、佐賀藩白石邑主鍋島直右の子として生まれる。直右には、養子の直昭がいたが、宝暦13年(1763年)に死去している。明和3年(1766年)に直右が死去し、家督を相続した。初名は直容。
明和4年(1767年)8月より佐賀郡代となる。佐賀藩では、郡方頭人(郡代)は三支藩藩主や「大配分」と呼ばれる大身の家臣(白石鍋島家などの御親類や御親類格)が務めた。
天明3年(1783年)1月、小城藩主鍋島直愈の妹・於加と結婚した。於加は義兄・直昭の姪であった。寛政6年(1794年)、藩校弘道館頭人(学長)に就任する。
文化3年(1806年)、伊万里の大川内山から陶工を招き、御用焼を始めたのが白石焼の始まりである。
文化4年(1807年)3月18日死去。享年47。家督は嫡男の央之助(直章)が相続した。正室の於加(鍋島周子)は歌人として知られ、「名花園」と号した。天保5年(1834年)死去。享年74。
参考文献
[編集]- 高野信治「藩領支配の地域性 : 支配機構と所領形態の地域的相関性、佐賀藩を素材に」『比較社会文化』第5巻、九州大学大学院比較社会文化研究科、1999年3月、17-36頁、doi:10.15017/8625、hdl:2324/8625、ISSN 1341-1659、NAID 110000566197。