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鈴木魯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鈴木 魯(すずき おろか、1833年天保4年) - 1878年明治11年)1月8日[1])は、日本武士福井藩士)、儒学者漢詩人。

蓼処(りょうしょ)[1]は敬玉[1]。魯は[1][2][3]

長男は鈴木虎一[4]

生涯

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福井藩士の鈴木百助準貞の子として越前国に生まれ[5]、松平家に仕える[1]

森春濤漢詩を学び、川田甕江と親交を持った[6]

安政4年(1857年 - 1858年)、藩校明道館の句読師となる[6]

松平春嶽が家臣について評価し書き記した「真雪草紙」の「学問の沿革」の項に、前田雲洞、高野惣左衛門、吉田悌蔵(吉田東篁)、清田丹蔵、山本龍二(関義臣)、矢島恕輔、橋本左内、鈴木魯、大島六蔵、富田才助、成島譲、高野進の寸評がある[7]。鈴木の書斎は「松香山房」といい松平春嶽が命名したことが伝わっている[8]

1874年(明治7年)に上京し、教部省につとめる[6]。墓は駒込吉祥寺墓地にある[1]

交友関係

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嘉永3年(1850年 - 1851年)頃、親交のあった橋本左内が適塾に在学中の作「秋夜病中、子文来訪、因賦」は、魯を詠んだ作品である(子文は魯を指す)[要出典]

燕去鴻来秋正深
病躯早已覚寒侵
愧他蟋蟀性尤怯
尚耐凄風冷露吟

著作

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著書・編著

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  • 『蓼処詩文稿』[要文献特定詳細情報]
  • 惲敬(著)鈴木魯(編)『大雲山房文抄』丸屋善七、1878年4月[9]
  • 惲敬『大雲山房文鈔 鈴木魯鈔』鈴木虎一、1878年[9]

作品掲載書籍

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  • 田島定邦(編)『蚕桑余事』出雲寺万次郎、1875年12月
  • 菊池良(編)『明治名家詩集 巻上』合書堂、1879年12月
  • 藤田謙三郎(編)『古今日本名家詩鈔 下』山崎登、1880年11月
  • 日比野正吉『剣舞術教範』博文館、1898年10月
  • 章林散士(編)『青年朗吟詩集』山本文友堂、1905年5月
  • 日比野雷風 (正吉) 『剣武術 : 武道根本』博文館、1906年7月
  • 剣光琴韻閣(編)『青年朗吟詩集 : 壮絶名士』岡村書店、1908年7月
  • 河内義光(著 剣光琴韻閣 編『掌中剣舞術・壮絶名士青年朗吟詩集』岡村盛花堂、1912年4月
  • 国分青厓 監修『漢詩大講座 第10巻(前)』アトリヱ社、1936年 - 1938年

脚注

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  1. ^ a b c d e f 鈴木 蓼処”. デジタルアーカイブ福井(福井県文書館). 2023年5月19日閲覧。
  2. ^ 近藤春雄『日本漢文学大事典』明治書院、1985年3月、[要ページ番号]
  3. ^ 日外アソシエーツ(編)『和歌・俳諧史人名事典』日外アソシエーツ/紀伊国屋書店、2003年1月、[要ページ番号]
  4. ^ 鈴木虎一”. 『人事興信録』データベース. 名古屋大学大学院法学研究科. 2023年5月19日閲覧。
  5. ^ 福田源三郎(編)『越前人物志 中・下』中編、玉雪堂、1910年(1972年に思文閣より復刻)、pp.745 - 748
  6. ^ a b c 鈴木蓼処」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%93%BC%E5%87%A6コトバンクより2023年10月29日閲覧 
  7. ^ 松平春嶽が家臣について評価し書き記した資料があると聞いた。書名は分からない。 - 国立国会図書館リファレンス協同データベース(福井県立図書館での質疑の転載、2021年12月18日)
  8. ^ 元福井藩士鈴木魯の書簡と、鈴木の書斎「松香山房」を松平春嶽が命名した際の書を読んでほしい。[明治初期の漢詩を通した日中文化交流 - 国立国会図書館リファレンス共同データベース(福井県文書館出の質疑の転載、2015年7月23日)
  9. ^ a b 鈴木 蓼処 - Webcat Plus (nii.ac.jp)