鈴木重時
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鈴木 重時(すずき しげとき、享禄元年(1528年)? − 永禄12年2月5日[1](1569年2月20日))は、戦国時代の武将。三河鈴木氏酒呑系、鈴木重勝の子[1]。姉妹に松平親忠の妻・閑勝院殿。鈴木重好の父[1]。通称、三郎大夫[1]。正室は奥山朝利の娘[1]。
生涯
[編集]永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いに父と今川側で参戦する[1]。
永禄11年(1568年)、遠州への侵攻を画策する徳川家康に加担した娘婿・菅沼忠久から今川離反の誘いを受け、承諾。これに近藤康用も加わった3人が井伊谷三人衆と呼ばれる事となる[1]。
その家康による遠州制圧戦は同11年末から行われ、徳川軍は遠州で越年。曳馬城攻略を最優先としていたため、浜名湖沿岸の諸城攻略が後回しとなっていた。
同12年(1569年)、家康の下命を受けて堀江城を攻めた[1]。だが、守将・大沢基胤率いる城兵は意気盛んで、なかなか抜けない。そればかりか、城方による反撃を許し、手痛い損害を少なからず受けた。
この時、近藤康用の子登助(近藤秀用)と競い城門にたどり着いた三郎大夫重時は、城方の攻撃を受けて命を落とした[1]。一説に42歳と伝える。戒名は、法福院殿清輝順光大禅定門。
子の重好は、井伊直政に付けられた。