鈴木敏通
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鈴木 敏通 | |
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生誕 |
1923年7月5日 日本 福井県 大野市 |
死没 |
2008年3月15日(84歳没) 日本 東京都 世田谷区 |
所属組織 |
大日本帝国陸軍 警察予備隊 保安隊 陸上自衛隊 |
軍歴 |
1944 - 1945(日本陸軍) 1951 - 1952(予備隊) 1952 - 1954(保安隊) 1954 - 1981(陸自) |
最終階級 |
陸軍中尉(日本陸軍) 陸上幕僚長たる陸将(陸自) |
鈴木 敏通(すずき としみち、1923年〈大正12年〉7月5日 - 2008年〈平成20年〉3月15日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。陸士57期。第16代陸上幕僚長。
人物
[編集]中学2年から仙台陸軍幼年学校に入校し陸軍士官学校へ進む[1]。旧軍では歩兵。満州勤務の後、終戦直前は高知で陣地作りに従事した[1]。復員し福井に帰郷後は旧制福井工専で電気を学び、エンジニアとして川崎の自動車会社に就職したが、1951年(昭和26年)12月に旧軍人組採用と同時に警察予備隊に1等警察士で入隊[1]。以後、職種は通信科へ進むが、北部方面通信群長の他は、防衛や人事畑が主だった[1]。
第13師団長、中部方面総監等を歴任し、第16代陸上幕僚長に就任。宮永スパイ事件で引責辞任した永野茂門前陸幕長の後任には、飯山茂東部方面総監が候補の一人であった。しかし飯山茂の陸幕2部長時代の部下が、宮永に機密を漏洩した人物であることから、同期の鈴木敏通が就任したといわれる。同じ通信科出身の永野前陸幕長の意向が働いた人事ともいわれる。人格者であり「今軍神」との評判もあった。
略歴
[編集]- 1944年(昭和19年)4月:陸軍士官学校卒業(第57期)、陸軍少尉任官
- 1945年(昭和20年)8月:終戦時、陸軍中尉(歩兵第44連隊付)
- 1951年(昭和26年)12月:警察予備隊に入隊(1等警察士)
- 1955年(昭和30年)8月16日:3等陸佐
- 1961年(昭和36年)1月1日:2等陸佐
- 1967年(昭和42年)
- 1968年(昭和43年)3月1日:北部方面通信群長
- 1969年(昭和44年)
- 1972年(昭和47年)3月16日:西部方面総監部第3部長[5]
- 1973年(昭和48年)
- 1975年(昭和50年)3月17日:陸上幕僚監部第1部(現在の人事部)部長[8]
- 1976年(昭和51年)7月1日:陸将に昇任、第13師団長[9]
- 1977年(昭和52年)10月20日:陸上幕僚副長[10]
- 1979年(昭和54年)3月16日:第9代 中部方面総監[11]
- 1980年(昭和55年)2月12日:第16代 陸上幕僚長[12]
- 1981年(昭和56年)6月1日:退官[13]
- 1998年(平成 5年)11月3日:勲二等瑞宝章受章[14]
- 2008年(平成20年)3月15日:入院先の自衛隊中央病院で逝去(享年84)。叙・正四位[15]
栄典
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d 朝雲新聞(1980年2月28日)「この人と10分間」
- ^ 『官報』本紙第12076号(昭和42年03月18日)
- ^ 『官報』本紙第12675号(昭和44年3月18日)
- ^ 『官報』本紙第12776号(昭和44年7月18日)
- ^ 『官報』本紙第13569号(昭和47年3月17日)
- ^ 『官報』本紙第13868号(昭和48年3月19日 )
- ^ 『官報』本紙第13956号(昭和48年7月4日)
- ^ 『官報』本紙第14462号(昭和50年3月19日)
- ^ 『官報』本紙第14845号(昭和51年7月2日)
- ^ 『官報』本紙第15234号(昭和52年10月21日)
- ^ 『官報』本紙第15648号(昭和54年3月17日)
- ^ 『官報』本紙第15917号(昭和55年2月13日)
- ^ 『官報』本紙第16303号(昭和56年6月2日)
- ^ 『官報』号外第189号(平成5年11月4日)
- ^ 『官報』本紙第4814号(平成20年4月22日)
参考資料
[編集]- 『官報』1955年10月19日 本紙 8641 叙任及辞令
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