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金裕澤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
金裕澤
김유택
金裕澤
生年月日 1911年4月10日
出生地 大日本帝国の旗 日本統治下朝鮮 黄海道
没年月日 (1975-06-17) 1975年6月17日(64歳没)
出身校 九州帝国大学法文学部法科卒業
(現九州大学法学部)
前職 駐英大使
現職 自動車保険会社社長
所属政党 民主共和党

内閣 金顕哲内閣
崔斗善内閣
在任期間 1963年7月22日 - 1964年3月2日
国家再建最高会議議長
大統領
朴正煕
朴正煕

大韓民国の旗 大韓民国
第4代 経済企画院長
内閣 金顕哲内閣
在任期間 1962年7月10日 - 1963年2月8日
国家再建最高会議議長 朴正煕

大韓民国の旗 大韓民国
初代 経済企画院長
内閣 宋尭讃内閣
在任期間 1961年7月22日 - 1962年3月2日
大統領 尹潽善

大韓民国の旗 大韓民国
第13代 財務部長官
内閣 張都暎内閣
宋尭讃内閣
在任期間 1961年6月22日 - 1961年7月22日
大統領 尹潽善

大韓民国の旗 大韓民国
国会議員
選挙区 忠清北道堤川郡丹陽郡選挙区
在任期間 1967年7月1日 - 1971年6月30日
テンプレートを表示

金 裕澤(キム・ユテク、朝鮮語: 김유택1911年4月10日 - 1975年6月17日)は、大韓民国政治家官僚韓国銀行総裁や駐日大韓民国代表部首席代表(現在の駐日大韓民国大使の前身)、大韓民国副首相兼経済企画院長官などを務めた。本貫清風金氏朝鮮語版[1]

人物

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1911年黄海道載寧郡で生まれる清風金氏。海州高等普通学校を経て、1932年京城高等商業学校卒業。1938年に九州帝国大学法文学部法科を卒業後、日本植民地時代韓国銀行の前身である朝鮮銀行に入行し、貸付部長、理事、副総裁などを経験する[2][3][4]1951年から5年間は韓国銀行総裁を務め、国際通貨基金国際復興開発銀行加入のために活躍する。1957年には駐日大韓民国代表部首席代表に着任し、その後は駐英韓国大使を経て1961年5・16軍事クーデターを機に政界へ進出した。1961年財務部長官となり、1963年には経済企画院の設立に参加して初代長官に着任する。政界引退後は韓国自動車保険株式会社の社長となり、在職中の1975年に死去[5]

エピソード

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1958年に当時の李承晩大統領が駐日代表部大使に金を任命する際に「私は国交を正常化させるために、金大使を日本に行かせるのではない。今はその時期にあらず。少なくとも現在、四十歳以上の韓国人がすべて亡くなった後でなければ、本当の正常化はできまい」と語った[6]

脚注

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  1. ^ 김유택(金裕澤)”. 韓国民族文化大百科事典. 2023年8月15日閲覧。
  2. ^ 永島広紀 「帝国」の大学に学んだ朝鮮人学生韓国研究センター年報22巻
  3. ^ 「読売新聞」1961年8月31日朝刊
  4. ^ 九州帝国大学一覧 昭和14年
  5. ^ 「朝日新聞」1975年6月19日朝刊
  6. ^ 「朝日新聞」1993年8月22日朝刊

外部リンク

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公職
先代
具鎔書
大韓民国の旗 韓国銀行総裁
第2代:1951 - 1956
次代
金鎮炯
先代
白善鎮
大韓民国の旗 大韓民国財務部長官
第13代:1961
次代
千炳圭
外交職
先代
金溶植
大韓民国の旗 駐日大韓民国代表部首席代表
第7代:1957 - 1958
次代
柳泰夏
先代
金用雨
大韓民国の旗イギリス大韓民国大使
第2代:1958 - 1960
次代
金溶植