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千炳圭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

千 炳圭(チョン・ビョンギュ、朝鮮語: 천병규1918年7月1日 - 1993年7月19日)は、大韓民国の金融官僚外交官政治家実業家韓国銀行副総裁、第14代財務部(現・企画財政部)長官、第10代韓国国会議員。本貫潁陽千氏東栢(トンベク、동백)[1]。日本名は千田 圭一[2]

検察総長法務部長官の呉鐸根は妻の兄弟[3]

経歴

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慶尚北道安東に生まれた。1931年に大邱公立普通学校を卒業し、1936年大邱高等普通学校(現・慶北高等学校)を修了した。1939年に大阪商科大学(のちの大阪公立大学予科を卒業し、1941年に大阪商科大学を卒業した。1942年に朝鮮銀行に入行し、1950年に韓国銀行初代東京支店長を務め、その後は大阪香港の支店長および外務部長、調査部長を務めた。1956年に韓国銀行副総裁を務めた後、1959年に韓国銀行の銀行監督部長と財務部次官を歴任した。1961年に財務部長官となり、6・10通貨改革を主導し、第1次経済開発5カ年計画の樹立をリードした。また、在任中にオーストリアウィーンで開催する国際通貨基金国際復興開発銀行の韓国首席代表として参加した。しかし、1963年に民主共和党4大疑惑事件の1つ、「証券波動」に巻き込まれ、3ヶ月間投獄された。出獄後はソウル新聞社理事を務め、1964年に政経研究所初代理事になった。1965年に大統領特使としてベトナム派遣将兵を慰問し、1966年に財務部長官顧問を務めた。1967年にアジア開発銀行常任理事に就任した後、国際経済会議に韓国代表団の顧問として数回参加した。1974年より駐タイ王国ラオス大使、1976年より駐スイス大使を歴任した[1][4]

1979年に維新政友会所属の第10代国会議員となり、維政会経科分科委員長、韓日議員連盟東京会議副委員長を務めた。その後は科学振興対策委員長を経て、1981年に東方鉄管株式会社会長を務めた[1]。そのほか韓国日報百想財団の理事長を務めていたが、持病により75歳で死去した[5][6]

脚注

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  1. ^ a b c 천병규(千炳圭)” (朝鮮語). 韓国民族文化大百科事典. 2023年5月6日閲覧。
  2. ^ 중앙은행 오디세이 <24> 해방 공간의 남북한 금융 엘리트들-‘자치위원회’ 이끌던 구용서, 조선은행 실세로 떠올라韓国銀行
  3. ^ [新 한국의 가벌] #8. 5·16으로 박정희 가문과 애증 싹터” (朝鮮語). 시사저널 (2014年12月25日). 2023年10月4日閲覧。
  4. ^ 대한민국헌정회”. rokps.or.kr. 2023年5月6日閲覧。
  5. ^ 千炳圭(천병규) 前(전)재무 별세”. NAVER Newslibrary. 매일경제 (1993年7月20日). 2023年5月6日閲覧。
  6. ^ 前(전)재무부장관 千炳圭(천병규)씨”. NAVER Newslibrary. 조선일보 (1993年7月20日). 2023年5月6日閲覧。
公職
先代
金裕澤
大韓民国の旗 大韓民国財務部長官
第14代:1961-1962
次代
金世錬
外交職
先代
林胤英
大韓民国の旗タイ王国大韓民国大使
第6代:1974 - 1976
次代
朴槿
先代
朴槿
大韓民国の旗スイス大韓民国大使
第6代:1976 - 1979
次代
宋賛鎬