金裕澤
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(金裕沢から転送)
金裕澤 김유택 金裕澤 | |
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生年月日 | 1911年4月10日 |
出生地 | 日本統治下朝鮮 黄海道 |
没年月日 | 1975年6月17日(64歳没) |
出身校 |
九州帝国大学法文学部法科卒業 (現九州大学法学部) |
前職 | 駐英大使 |
現職 | 自動車保険会社社長 |
所属政党 | 民主共和党 |
内閣 |
金顕哲内閣 崔斗善内閣 |
在任期間 | 1963年7月22日 - 1964年3月2日 |
国家再建最高会議議長 大統領 |
朴正煕 朴正煕 |
内閣 | 金顕哲内閣 |
在任期間 | 1962年7月10日 - 1963年2月8日 |
国家再建最高会議議長 | 朴正煕 |
内閣 | 宋尭讃内閣 |
在任期間 | 1961年7月22日 - 1962年3月2日 |
大統領 | 尹潽善 |
内閣 |
張都暎内閣 宋尭讃内閣 |
在任期間 | 1961年6月22日 - 1961年7月22日 |
大統領 | 尹潽善 |
選挙区 | 忠清北道堤川郡・丹陽郡選挙区 |
在任期間 | 1967年7月1日 - 1971年6月30日 |
金 裕澤(キム・ユテク、朝鮮語: 김유택、1911年4月10日 - 1975年6月17日)は、大韓民国の政治家、官僚。韓国銀行総裁や駐日大韓民国代表部首席代表(現在の駐日大韓民国大使の前身)、大韓民国副首相兼経済企画院長官などを務めた。本貫は清風金氏[1]。
人物
[編集]1911年に黄海道載寧郡で生まれる清風金氏。海州高等普通学校を経て、1932年京城高等商業学校卒業。1938年に九州帝国大学法文学部法科を卒業後、日本植民地時代に韓国銀行の前身である朝鮮銀行に入行し、貸付部長、理事、副総裁などを経験する[2][3][4]。1951年から5年間は韓国銀行総裁を務め、国際通貨基金と国際復興開発銀行加入のために活躍する。1957年には駐日大韓民国代表部首席代表に着任し、その後は駐英韓国大使を経て1961年の5・16軍事クーデターを機に政界へ進出した。1961年に財務部長官となり、1963年には経済企画院の設立に参加して初代長官に着任する。政界引退後は韓国自動車保険株式会社の社長となり、在職中の1975年に死去[5]。
エピソード
[編集]1958年に当時の李承晩大統領が駐日代表部大使に金を任命する際に「私は国交を正常化させるために、金大使を日本に行かせるのではない。今はその時期にあらず。少なくとも現在、四十歳以上の韓国人がすべて亡くなった後でなければ、本当の正常化はできまい」と語った[6]。
脚注
[編集]- ^ “김유택(金裕澤)”. 韓国民族文化大百科事典. 2023年8月15日閲覧。
- ^ 永島広紀 「帝国」の大学に学んだ朝鮮人学生韓国研究センター年報22巻
- ^ 「読売新聞」1961年8月31日朝刊
- ^ 九州帝国大学一覧 昭和14年
- ^ 「朝日新聞」1975年6月19日朝刊
- ^ 「朝日新聞」1993年8月22日朝刊
外部リンク
[編集]- 김유택(金裕澤) - 韓国学中央研究院
公職 | ||
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先代 具鎔書 |
韓国銀行総裁 第2代:1951 - 1956 |
次代 金鎮炯 |
先代 白善鎮 |
大韓民国財務部長官 第13代:1961 |
次代 千炳圭 |
外交職 | ||
先代 金溶植 |
駐日大韓民国代表部首席代表 第7代:1957 - 1958 |
次代 柳泰夏 |
先代 金用雨 |
在イギリス大韓民国大使 第2代:1958 - 1960 |
次代 金溶植 |