金田千鶴
金田 千鶴(かなだ[1][2] / かねだ ちづ、1902年11月 - 1934年8月17日)は、昭和初期のアララギ派の女流歌人[3]。
経歴
[編集]長野県下伊那郡泰阜村平島田の庄屋の家に生まれ、長野県立飯田高等女学校(後の長野県飯田風越高等学校の前身校の一つ)に学ぶ[3]。卒業後に飯田町の寺に嫁いだが、程なくして離婚し、上京して帝国女子専門学校(後の相模女子大学の前身)に学ぶ[3]。
在学中に『アララギ』の選者であった岡麓と知り合い、師事する[3]。
1924年、小学校時代の教師だった彫刻家の倉沢興世と再会し、恋愛関係となるが、程なくして結核に罹患し、帰郷することとなった[3]。
帰郷後も作歌を続け、1929年には『アララギ』の準同人となり、自然や人間関係を主題としたもののほか、昭和恐慌下で困窮する山村の姿を捉えた「社会詠」も手掛けた[3]。さらに、小説も手掛け、1931年には文芸誌『つばさ』に「霜」[1]と「夏蚕時」[2]の2編を発表した。
金田千鶴は、1934年に、結核のため満31歳で死去したが、8年間ほどの活動歴の中で、短歌800首あまり、小説2編、文学ノート2冊を残し、「病歌人」、「相聞歌人」、「社会詠歌人」などとも称された[4]。
歌集の刊行
[編集]千鶴が詠んだ作品をまとめた歌集は、死去の翌年、1935年に『金田千鶴歌集』が古今書院から出たが、後に1976年に池田寿一が編集した『金田千鶴全集』が金田千鶴全集刊行会によって出版され、さらに1991年には、池田寿一と佐々木茂の編集による『定本金田千鶴全集』が短歌新聞社から出版された[5]。
遺されたもの
[編集]晩年の千鶴は、実家の離れに起居しつつ、体調が許すときには、近所を散策していたとされるが、没後に千鶴の歌碑が代田文誌の揮毫により実家近くに建てられ、当地は「千鶴ヶ丘」と称されるようになった [6]。
1999年、奥村晃作が、『恵那のいただき 悲恋の歌人金田千鶴小伝』を出版した[4][7]。
2002年には、ふじたあさやの脚本・演出による演劇宿公演『翔ぶ!~金田千鶴の道を生きた道~』が飯田市でおこなわれ、2022年にはその20年ぶりの再演がおこなわれた[6][8]。
脚注
[編集]- ^ a b 「図書カード:No.3204 霜」青空文庫。2024年8月24日閲覧。
- ^ a b 「図書カード:No.3203 夏蚕時」青空文庫。2024年8月24日閲覧。
- ^ a b c d e f 「金田 千鶴」『20世紀日本人名事典』 。コトバンクより2024年8月24日閲覧。
- ^ a b 「恵那のいただき 金田千鶴物語: 信州伊那谷が生んだ悲恋の〈アララギ派〉歌人」22世紀アート。2024年8月24日閲覧。 - Kindle版は22世紀アートが発行。
- ^ 「金田千鶴 検索結果」『CiNii』国立情報学研究所。2024年8月24日閲覧。
- ^ a b 「【南信州在住の方限定】3/13 ❝金田千鶴❞伊那谷が生んだ❝夭折のアララギ派歌人❞のふるさとを訪ねる」『南信州ナビ』南信州観光公社、2022年2月22日。2024年8月24日閲覧。
- ^ 「恵那のいただき : 悲恋の歌人金田千鶴小伝」『CiNii』国立情報学研究所。2024年8月24日閲覧。 - 書籍版は南信州新聞社が発行。
- ^ 「歌人・金田千鶴の生涯を20年ぶり再演 19、20日に飯田で」『中日新聞ニュース』中日新聞社、2022年3月8日。2024年8月24日閲覧。