浜田一夫
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県豊田市[1] |
生年月日 | 1963年6月20日(61歳) |
身長 体重 |
179[注 1][4][5] cm 89[注 1][4][5] kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1981年 ドラフト2位 |
初出場 |
NPB / 1984年8月4日[6] KBO / 1988年 |
最終出場 |
NPB / 1987年4月14日[7] KBO / 1988年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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浜田 一夫(はまだ かずお、1963年〈昭和38年〉6月20日 - )は、愛知県豊田市出身の元プロ野球選手(投手・右投右打)[1]。
愛知高校時代は同期の工藤公康[注 2]・槙原寛己[注 3]とともに「愛知三羽烏」[注 4]として名を馳せ[16]、1981年のプロ野球ドラフト会議で地元・愛知県に本拠地を置く中日ドラゴンズから2位指名を受けて入団[1]。「未来のエース」として期待されたが[3]、プロ入り後は1勝もできず、1987年限りで中日を退団した[注 5][5]。
来歴
[編集]プロ入り前
[編集]トヨタ自動車の社員である父親[注 6]と、熊本家政高校時代に200 m走で活躍した母親の間に生まれた[17]。豊田市立堤小学校・豊田市立高岡中学校出身[注 7][6]。中学時代は捕手だったが[13]、愛知高校1年生の時(1979年)に強肩を生かして投手へ転向[1][13]。
高校時代は球威はあったが、制球力に難があり、3年間で大会優勝経験・甲子園への出場経験はなかった[13]。2年生時(1980年)には夏の愛知県大会でベスト4まで進出した[1] が、準々決勝で敗退した[13]。同年冬には制球難を克服するため、1日2 - 3時間の走り込みを行っていた[13]。3年生の夏(1981年)には愛知県大会予選(愛知県立成章高校戦)[注 8]で延長18イニングを投げ、140 km/h台の速球を主体に18奪三振・4被安打に抑えた[13]。その際にも球威は衰えておらず、本人も「このスタミナならプロでもやっていける」と自信を持つようになった[注 9][3]。しかし、この大会では工藤公康[注 2](名古屋電気高校)に投げ負け[8]、甲子園への出場はならなかった。
中央球界では全くの無名選手ではあったが、地肩・球威の強さを高く評価され[13]、中日ドラゴンズは1981年のプロ野球ドラフト会議を前に、浜田を同じ「三羽烏」の工藤・槙原寛己[注 3](愛知県立大府高校)や、尾上旭(中央大学)、津田(協和醗酵)とともに1位指名候補として検討していた[20]。結局、当時のチーム事情から「指名選手6人は投手3人・捕手1人・内野手2人。1位は即戦力の内野手か投手」と決まり[21]、最終的には尾上を1位指名[22]。2位以下で浜田・工藤・槙原らの指名を予想していたが[21]、浜田を「将来性を含めた準即戦力」として2位で指名した[23]。なお、ドラフト会議前には国鉄名古屋への就職が内定しており[17]、本人は「中日は小さいころから好きな球団で、指名順位に関係なく入団したい。もし中日以外の球団から指名された場合は国鉄名古屋へ行く。中日から指名されたら、2, 3年は二軍で勉強したい」と表明していた[13]。
なお槙原は、ドラフト会議前に「好きな球団は中日。中日か在京球団に入団したい」と表明していたが[15]、担当スカウト・法元英明からは「即戦力ではない」と評価され[注 10][15]、中日ではなく読売ジャイアンツ(巨人)から1位で指名された[注 11][11]。また工藤はドラフト会議直前に「プロには行かない。熊谷組に入る」と宣言していた[24] が、西武ライオンズから6位で指名を受け、入団している[25]。
プロ入り後
[編集]1年目(1982年)の年俸は300万円(契約金3,000万円)で[2]、背番号は51[1]。入団後は重い速球・シュートを武器に、毎年のように一軍で活躍することを期待されたが、工藤・槙原ら同期の活躍に取り残された[6]。
プロ2年目の1983年には、二軍(ウエスタン・リーグ)でチーム最多の9勝[注 12]を挙げ、リーグ最高勝率に輝いた[27]。また、3年目の1984年には一軍でプロ初登板を含め、7試合9イニングに登板[28]。1985年には二軍で101イニングを投げ[注 13][29]、20試合登板・6勝6敗2セーブ(防御率2.67・リーグ投手成績5位)の成績を残した[30]。1987年には一軍で1試合に登板したが[4]、同年限りで中日を退団[注 5][5]。NPBでは通算8試合登板・0勝(防御率6.30・投球回10イニング)に終わった[4]。
同期生で先に渡韓していた金城信夫へ相談したことがきっかけで1988年は韓国プロ野球(KBOリーグ)の太平洋ドルフィンズに入団[31]。登録名は金 一夫(キム・イルブ、김일부)だったが、わずか2勝にとどまり、1年で退団した[31]。
選手としての特徴
[編集]ドラフト当時の担当スカウトだった法元英明[注 14]は、無名時代から浜田に着目して「若くて活きが良く、スタミナのある本格派投手。粗削りだが、2,3年鍛えれば良い投手になる」[2]「(当時、中日に在籍していた)鈴木孝政とタイプが似ており、槙原に勝るとも劣らない力がある」と評価していた[22]。また、近藤貞雄監督も「(浜田を)一目見て、『予想以上の才能の持ち主だ』と直感した。体つきから球質が重くて速い剛速球タイプだ。近い将来に中日のエースになれる」と高く評価していた[3]。
人物
[編集]愛知高校時代には毎日、豊田市内の実家から2時間半かけて高校に通学していた[3]。プロ入り前には『中日スポーツ』(中日球団の親会社である中日新聞社が発行)の記者からの取材に対し、「好きなプロ野球球団は中日、好きなプロ野球選手は星野仙一(中日)」と回答していた[13] ほか、入団内定直後には当時、中日で速球派投手として活躍していた小松辰雄を目標に挙げていた[2][3]。
また入団会見では、同じく「三羽烏」とうたわれていた槙原・工藤について、「2人とも素晴らしい投手だが、負けたくない」と述べていた[注 15][3] ほか、中日球団社長・堀田一郎[注 16]も「『愛知三羽烏』は3人全員欲しかったが、ドラフト制がある以上無理なので、スカウトに調べさせたところ、『浜田が一番』と自信ある意見が返ってきた」と述べている[3]。
中日は「3人の中で一番即戦力に近い」として浜田を指名[注 10]したが、浜田はプロでは活躍できなかった[注 17][34] 一方、工藤・槙原はともにNPBで通算150勝以上を挙げた[注 2][注 3]。特に巨人に入団した槙原は、ナゴヤ球場(中日の本拠地)で開催される中日戦で好投していたため、中日球団および親会社である中日新聞社に対し、中日ファンからの怒りの電話が殺到するようになった[34]。このため、中日は1993年オフにフリーエージェント (FA)の権利を取得した槙原を獲得しようとしたが、槙原は最終的に巨人に残留している[34]。
詳細成績
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1984 | 中日 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 40 | 9.0 | 7 | 2 | 7 | 0 | 0 | 10 | 0 | 0 | 7 | 6 | 8.71 | 2.03 |
1987 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 6 | 1.0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 1 | 1 | 9.00 | 2.00 | |
1988 | 太平洋 | 23 | 7 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4 | 2 | -- | 0.333 | 312 | 72.0 | 70 | 10 | 34 | 1 | 7 | 39 | 38 | 35 | 4.38 | 1.44 | ||
NPB:2年 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 46 | 10.0 | 9 | 2 | 8 | 0 | 0 | 13 | 0 | 0 | 8 | 7 | 4.83 | 1.43 | |
KBO:1年 | 23 | 7 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4 | 2 | -- | 0.333 | 312 | 72.0 | 70 | 10 | 34 | 1 | 7 | 39 | 38 | 35 | 4.38 | 1.44 |
表彰
[編集]- NPB
記録
[編集]- NPB
背番号
[編集]- 51 (1982年 - 1987年)
- 19 (1988年)
登録名
[編集]- 浜田 一夫 (はまだ かずお、1982年 - 1987年)
- 金 一夫 (キム・イルブ、김일부、1988年)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b 入団直後の新聞報道では「身長180 cm・体重78 kg」[2][3]。
- ^ a b c 工藤は名古屋電気高校3年時の1981年夏の愛知県大会で浜田に投げ勝ち、甲子園へ出場[8]。同年のドラフト会議で西武ライオンズに6位で指名され[9]、NPB通算224勝を記録[10]。最優秀選手(MVP)2回・正力松太郎賞5回(2020年シーズン終了時点)・野球殿堂競技者表彰 (2016年)。
- ^ a b c 槙原は1981年のドラフト会議で愛知県立大府高校から読売ジャイアンツ(巨人)に1位で指名され[11]、NPB通算159勝を記録[12]。
- ^ 「愛知の高校三羽ガラス」[2]「愛知の三羽ガラス」[3] とも表記される。ただし、浜田(甲子園出場経験なし)は中央球界では無名だった[13] 一方、工藤・槙原はともに甲子園への出場経験があり[14][15]、金村義明(報徳学園高校)とともに「ドラフト1位指名は確実」と評価されていた[15]。
- ^ a b 『昇竜の軌跡』(ベースボール・マガジン社・2005年)には「1987年に引退」と記載されている[5]。
- ^ 浜田の父親は軟式野球・ソフトボールで不動の4番打者だった[17]。
- ^ 1982年(昭和57年)4月、高岡中学校から分離独立する形で豊田市立前林中学校が開校[18]。2019年時点で堤小学校からの進学先は前林中学校となっている[19]。
- ^ 1981年7月25日の成章高校戦(豊橋市民球場)[13]。
- ^ 本人は「1年生の時は無我夢中で、2年生の夏に自信はついたが、プロ入りまでは考えていなかった」と述べている[13]。一方、浜田の恩師である愛知高校野球部の鹿島田正勝監督は「練習は貪欲だが、自分から見ればプロは時期尚早だ」と述べていた[13]。
- ^ a b 法元は槙原について、「即戦力とまではいかないが、3年間下半身強化に努めれば、素晴らしい投手になる」と評価していた[15]。
- ^ 中日は槙原について「1位で消える」と考えており、槙原を指名する意思はなかった[23]。
- ^ 21試合に登板し、106回1/3イニングを投げて9勝3敗0セーブ・防御率3.64(投手成績9位)の成績[26]。
- ^ チームメイトの近藤満に次ぐ[29]。
- ^ 法元は当時、1982年度から二軍チーフコーチに異動することが決まっていたため、浜田の入団直後には「この手で一流投手に育て上げたい」と意気込んでいた[2]。また、法元の息子は浜田と愛知高校で同学年かつ、同じ野球部に在籍していた[22]。浜田が中日から2位で指名された直後、浜田の父親は「家族・親戚全員中日ファンだ。中日以外の球団なら指名を断っていた」と、母親も「もし中日以外の球団だったり、中日に法元さんがいなかったら(息子の入団を)断っていただろう」と述べている[17]。
- ^ 本人は指名直後、「特に、巨人に指名された槙原君には絶対に負けたくない」と述べていた[32]。
- ^ 1979年(昭和54年)2月 - 1985年(昭和60年)6月まで中日球団社長[33]。
- ^ ドラフト指名直後、浜田の両親は「息子がプロで活躍できるか心配だ」とも考えていた[17]。
出典
[編集]- ^ a b c d e f 「'82プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』1982年3月号、日本スポーツ出版社、1982年3月31日、67頁。
- ^ a b c d e f 『中日新聞』1981年12月11日朝刊第12版第一運動スポーツ面21頁「浜田(2位指名愛知高)も中日入り内定 スタミナある本格派投手 『目標、小松さん』」(中日新聞社)
- ^ a b c d e f g h i 『中日新聞』1981年12月15日朝刊第12版第一運動スポーツ面17頁「『中日の浜田』が誕生 入団発表 『スタミナに自信』 球質の重い剛速球タイプ」(中日新聞社)
- ^ a b c d “浜田 一夫(中日ドラゴンズ) 個人年度別成績”. NPB.jp 日本野球機構. 日本野球機構. 2021年1月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月16日閲覧。
- ^ a b c d e ベースボール・マガジン社 2005, p. 141.
- ^ a b c d 『中日ドラゴンズ '87ファンブック』中日ドラゴンズ(発行)・中日新聞本社(発売)〈中日ドラゴンズファンブック〉、1987年4月14日、28頁。ISBN 978-4806201847。
- ^ 『中日新聞』1987年4月15日朝刊第12版第一運動スポーツ面19頁「セ・リーグ第2節14日 ナゴヤ・夜 広島10-2中日 中日"苦投"リレー ナゴヤ初戦飾れず 鹿島タブー犯し早々とKO ゲーリー3号散る」(中日新聞社)
- ^ a b 「工藤公康 不敵なマウンド度胸で日本シリーズMVP」『ベースボールアルバム』第9巻第1号、ベースボール・マガジン社、1987年12月15日、56頁。 - 通算第84号。1987年(昭和62年)1月1日発行。
- ^ ホームラン 1984, p. 93.
- ^ “工藤 公康(埼玉西武ライオンズ) 個人年度別成績”. NPB.jp 日本野球機構. 日本野球機構. 2020年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月15日閲覧。
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- ^ “槙原 寛己(読売ジャイアンツ) 個人年度別成績”. NPB.jp 日本野球機構. 日本野球機構. 2020年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年1月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『中日スポーツ』1981年11月2日第4版4頁「ドラフトの顔 2 浜田一夫投手 愛知高 自信つけた延長18回 たとえ三年待ってでも… “タカマサ二世”中日を熱望」(中日新聞社)
- ^ 『中日スポーツ』1981年11月1日第4版4頁「ドラフトの顔 1 工藤(名電)巨人の指名心待ち 即戦OKの超高校級 きっぱり“パならノンプロ”」(中日新聞社)
- ^ a b c d e 『中日スポーツ』1981年11月3日第4版3頁「ドラフトの顔 3 槙原寛己投手(大府高)145キロ、まだ伸びる 望みは中日かセ在京 意中外なら進学の線も」(中日新聞社)
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- ^ “学校概要”. 豊田市立高岡中学校. 豊田市. 2020年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年1月1日閲覧。
- ^ “2019年度豊田市立小中学校区一覧表” (PDF). 豊田市. p. 4 (2019年6月26日). 2020年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年1月1日閲覧。
- ^ 『中日スポーツ』1981年11月20日第4版1頁「中日、迷う1位指名 地元豊作年 うれしい悩み 候補5人 工藤(名電)槙原(大府)浜田(愛知) 即戦力の尾上(中大)津田(協和醗酵)か 投手・捕手・内野手(近藤監督の希望)」(中日新聞社)
- ^ a b 『中日スポーツ』1981年11月25日第4版1頁「中日は尾上か きょうドラフト “逆指名”津田に6球団 1位の星 右田、3球団が食指 巨人、金村にも色目 投手で田中、宮本らも」(中日新聞社)
- ^ a b c 『中日スポーツ』1981年11月26日第4版1頁「中日、金的尾上 '81恋人たち 意中球団へ 2位浜田(愛知高) すぐにも入りたい」(中日新聞社)
- ^ a b 『中日スポーツ』1981年11月26日第4版2頁「即戦力の内野と投手 中央ラインも強化できた 補強90点、満足げな近藤さん」(中日新聞社)
- ^ 『中日スポーツ』1981年11月22日第4版1頁「工藤キッパリ宣言 ノンプロでエースだ 迷った末、熊谷組へ 通用しない速球 板東さんにも言われた」(中日新聞社)
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- ^ ホームラン 1984, p. 167.
- ^ a b ホームラン 1984, p. 73.
- ^ 「'87プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第11巻第3号(通算:第106号、1987年3月号)、日本スポーツ出版社、1987年3月31日、73頁。
- ^ a b ホームラン 1986, p. 67.
- ^ ホームラン 1986, p. 167.
- ^ a b “[프로야구 매니저] OB의 재구성 - 역대 재일교포 투수 올스타” (朝鮮語). 中央日報 ( 大韓民国・ソウル特別市: 中央日報). (2010年6月23日). オリジナルの2020年1月1日時点におけるアーカイブ。 2020年1月1日閲覧。
- ^ 『中日スポーツ』1981年11月27日第4版1頁「浜田2位指名OKの笑顔 心は中日、手順もどかしげ 和やか初交渉 いい感じ倉田(大昭和)両親らと相談、快答は近い」(中日新聞社)
- ^ 中日ドラゴンズ『中日ドラゴンズ70年史』(初版第1刷)中日新聞社、2006年2月23日、37頁。ISBN 978-4806205142。
- ^ a b c 白川浩司(編)「誰がトクした?FA制 落合巨人の“変化球”ではJリーグに勝てない? / 記者匿名座談会」『文藝春秋』第72巻第1号、文芸春秋、1994年1月1日、351頁、doi:10.11501/3198605。 - 1994年1月号(平成6年新年特別号)。
- ^ 『中日新聞』1984年8月5日朝刊第11版第一運動スポーツ面21頁「セ・リーグ第18節4日 広島・夜 広島8-4中日 首位決戦 中日敗れ再び2差に 宇野の3試合連発フイ 都裕次郎、伏兵に痛い2発 継投も遅れる」(中日新聞社)
参考文献
[編集]- 「'84プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第8巻第3号(通算:第78号、1984年3月号)、日本スポーツ出版社、1984年3月31日、73,167。
- 「'86プロ野球 12球団全選手百科名鑑」『ホームラン』第10巻第3号(通算:第97号、1986年3月号)、日本スポーツ出版社、1986年3月31日、67,167。
- 池田哲雄 編『中日ドラゴンズ70年 昇竜の軌跡』ベースボール・マガジン社、2005年6月1日、141頁。ISBN 978-4583613246。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 浜田一夫 - NPB.jp 日本野球機構