野々山頼兼
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 元亀3年(1572年) |
死没 | 慶長9年7月22日(1604年8月17日) |
別名 | 通称:新兵衛 |
戒名 | 善芳浄受 |
墓所 | 東京都文京区湯島の稱仰院 |
主君 | 徳川家康→秀忠 |
氏族 | 三河野々山氏 |
父母 | 父:野々山元政 |
子 | 養子:兼綱 |
野々山 頼兼(ののやま よりかね)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。
略歴
[編集]三河国の出身。幼少の頃は徳川家康に仕え、後にその子・秀忠に仕える。入洛および関ヶ原の戦いに供奉したのち、腰物奉行となった。
慶長3年(1598年)には武蔵国都筑郡茅ヶ崎村(現神奈川県茅ヶ崎市)に230石の領地を与えられ、慶長7年(1602年)には、上野国勢多郡武士村(現群馬県伊勢崎市)に300石加増された。
慶長9年(1604年)7月22日、死去。享年33。養子・兼綱が後を継いだ。
脚注
[編集]出典
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第百十