野々山直記
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ののやま なおき 野々山 直記 | |
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生誕 | 1851年6月24日 |
死没 | 1925年6月29日(74歳没) |
国籍 | 日本 |
別名 | 王峰、王鳳 |
野々山 直記(ののやま なおき、嘉永4年5月25日(1851年6月24日)- 大正14年(1925年)6月29日)は、明治時代の教育者。
経歴
[編集]信濃国松本藩の家老家の信濃野々山氏の一門に生まれる。幼少期は藩校崇教館で学び、慶応3年(1867年)藩命で江戸に留学し、林靏梁について学ぶ。留学後は新設の筑摩県師範学校を卒業し、その後は明智学校[1]、下波多学校[1]の勤務を経て、松川尋常高等小学校[2]の教員となった。松川学校では校長を22年間務め、草創期の小学校教育の基礎づくりに貢献した。
信飛新聞に学区取締、教員、村吏による教育会議の設置を提言し、さらには渡辺敏及び山本英風らと「幽谷雑誌」を発行し、地方の経済発展、文化の向上について、さまざまな開明的発言をした。また、晩年は中等学校の剣道教師を務めた。 優れた漢詩人としても知られ、王峰(王鳳)と号し漢詩をよくした。松川小学校には野々山直記の愛好した「梅経寒苦放清香(梅は寒苦を経て清香を放つ)」という漢詩が刻まれた頌徳碑があり、同校の校訓となっている。
著書
[編集]- 『元禄忠節史詩談:国民必読』三友堂書店 1919年
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『北安曇郡志』北安曇郡役所、1923年