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重瀬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本 > 埼玉県 > 戸田市 > 重瀬
重瀬
彩湖(荒川第一調節池)
重瀬の位置(埼玉県内)
重瀬
重瀬
重瀬の位置
北緯35度49分38.39秒 東経139度37分44.17秒 / 北緯35.8273306度 東経139.6289361度 / 35.8273306; 139.6289361
日本の旗 日本
都道府県 埼玉県
市町村 戸田市
設置 1944年昭和19年)2月11日
人口
2017年(平成29年)10月1日現在)[1]
 • 合計 0人
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
335-0000[2]
市外局番 048[3]
ナンバープレート 大宮

重瀬(おもせ)は、埼玉県戸田市北西部の大字[4]。旧新座郡下内間木村重瀬原通北地蔵木南地蔵木山室有毛奥渦野中[5]郵便番号は335-0000。2010年2月1日現在の人口は0人[6]

地理

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戸田市の北西部、荒川堤外に位置し[4]、北部を曲本、東部及び南部を内谷、荒川を挟んで朝霞市下内間木及び上内間木と接している。区域の東境は荒川の旧流路であり、かつてはこの境界線上に荒川が流れていた。中央に人工湖である荒川第一調節池彩湖が南北に貫いている。南北約1.2km、東西約0.9kmを占める[5]。彩湖の東岸と西岸はで行き来できるが、荒川を挟んだ朝霞市と重瀬との間は直接行き来することはできない。重瀬地区全域が荒川左岸河川敷であり、堤外地であるため、荒川の増水時には全域が冠水する。また地内の全域が彩湖・道満グリーンパークの施設内であるため、現在居住者はない。

河川

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湖沼

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歴史

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1591年天正19年)5月17日、前年の小田原城落城を受けて、徳川家康加藤源四郎正勝に内間木の他入間郡池辺村・大仙波村併せて300の土地を与えたとされている[7]。重瀬はこのうち内間木の一部だったとされる[注釈 1]。荒川左岸にあった重瀬は元来水害の多いところだったが、1629年寛永6年)に旧入間川が荒川の本流になって後水害の常襲地域となった[4]。たびたび水害に見舞われるため農民は土地の高いところにを作り、他は専ら原野での採集を産業としていた[7][注釈 2]。周囲を川と原野で隔てられていたので近隣の村との交わりも疎く、貧しく質素な暮らしぶりだった[8]。外来者が殆ど無い上に貧しい村だったために家々は戸を閉ざすことが無かったと言われる[7][注釈 3]江戸時代に入って後御料所となり、さらに後化政期には代官川崎平右衛門の支配となっている[7][注釈 4]1627年(寛永4年)に江川太郎左衛門による検地を受けている[8]

明治時代に入って重瀬地区の属する下内間木村は1872年(明治5年)の大区小区制では第二大区第六小区、翌1873年(明治6年)の熊谷県設置以降は南第二大区第六小区に配置された[10]1878年(明治11年)の郡区町村編制法において大区小区制は廃止されたが、1889年(明治22年)4月1日の町村制施行の際下内間木村は上内間木村浜崎村宮戸村田島村と合併し新座郡内間木村となり、重瀬地区はそれぞれ内間木村大字下内間木に属する小字となった[10]。この頃の重瀬地区には重瀬・原通・北地蔵木・南地蔵木・山室・有毛・渦・奥渦・野中の小字があったとされる[11]1896年(明治29年)3月29日には榑橋村及び新倉村の一部を除いて北足立郡への統合が行われ、重瀬地区は北足立郡内間木村大字下内間木のそれぞれ小字となった[10][12]

1910年(明治43年)8月11日荒川大洪水では家々は軒先まで水に浸かり、人畜・家屋・田畑に甚大な損害を受けた[4]。これを受けて荒川は大規模な改修工事を行い、流路の変更が行われた。その結果、1923年(大正13年)工事は完成したが、重瀬地区は荒川の西岸から東岸に移り、内間木小学校に通う児童が風雨の為渡船の出ない日は秋ヶ瀬橋を迂回しなければならないなど不便が多く[11]1944年(昭和19年)2月11日戦時町村合併促進法により内間木村が志木町、入間郡宗岡村水谷村と合併し、志紀町となった際、重瀬地区は北足立郡美笹村に編入され、北足立郡美笹村大字重瀬として独立した大字となった。河川改修の結果、重瀬を含む堤外地は堤防による恩恵を受けることが全くできなくなった[5]。また蛇行した流路が直線化されたため秩父地方に大雨が降った5時間後には重瀬で出水し、大雨情報を受けてから水防の準備を行うことが事実上不可能になった[5]。また、河川法施行による指定地域内に入ったことで堤内地耕地以外の利用が不可能になったため河川改修の際に破壊された畑囲外周を修復できなくなったことや河川改修工事の結果、それまで用いていた井戸が自噴しなくなる等地区内の居住環境及び耕作環境は悪化の一途を辿った[5]。このため国に宛てて請願書や陳情書が複数回出された[5]。こうした運動の結果国は移転費5,000万円を計上し、1954年10月1日から1955年3月1日までに移転を完了せよという通達が出された[5]。この際に31戸の民家と3戸の船上生活者が全戸移転を行い、重瀬は無人化した。このうち美女木字番匠免に集住した集落は「重瀬」の集落名をそのまま引き継いだ。この重瀬集落は現在の美女木一丁目の一部にあたる[5]。この後1957年(昭和32年)7月1日 には戸田町に編入合併され、北足立郡戸田町大字重瀬となり、1966年(昭和41年)10月1日には市制施行により戸田市大字重瀬となった[4]

沿革

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移転先

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1942年(昭和17年)に居住していた34世帯及び船上生活をしていた3世帯の移転先は下表に示すとおりである[13]

移転先 1942年 1953-1954年 合計
美笹村大字美女木(番匠免・修行目・堀之内他) 2 28 30
美笹村大字下笹目(天王) 0 1 1
浦和市大字内谷(現さいたま市南区内谷) 0 3 3
浦和市大字松本(現さいたま市南区松本) 0 2 2
東京都北区浮間町 0 1 1
合計 2 35 37

史跡

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  • 地蔵堂跡 - 北東部の字北地蔵木にあったが、朽ち落ちた後に土地が造成されてしまい、堂守の墓を除いて低い草地になっている[11]
  • 北向地蔵跡 - 疣取地蔵として信仰を集めた[11]
  • 鷹場石杭(お鷹場石標) - 発掘された後、浦和市教育委員会(現さいたま市教育委員会)に貸し出され、戸田市西部福祉センターに移された。正面に「従是西北北尾張殿鷹場」とあり、左側面に「下内間木村」と彫られている。朝霞市浜崎浜崎氷川神社に2本存在したものとほぼ同様のものである[11]。浜崎氷川神社のうち1本は朝霞市博物館に寄贈されている。
  • 西福寺 - 『新編武蔵風土記稿』によれば字西口にあったと言われ[8]武蔵国郡村誌』によれば下内間木村南方に存在すると言われる[注釈 5]が、明治中期に水害で流されたため正確な所在はわかっていない[5][11]
  • 山王社跡 - 字原通にあった重瀬地区の氏神。明治初期に水害で流されたため内間木の氷川神社に合祀された。昭和初期に元あった場所に再建されたが1953年土取を行って美女木に移転し現在は公孫樹一本のみが残されている[5][11]
  • 横堤 - 河川両岸の堤防に対して直角に河川方向に伸ばされた堤防。洪水の勢いを弱め、下流の流量を制限する働きを持つ。1918年(大正7年)の荒川上流部改修計画で計画・造成され、1934年(昭和9年)に竣工した[14]土木学会から平成20年度土木遺産の選定を受けている[14]

交通

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バス

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地内にバス路線は存在しないが、東側の美女木八丁目に設置されている、国際興業バスの道満グリーンパーク停留所が最寄の停留所となる。

施設

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脚注

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注釈

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  1. ^ 新編武蔵風土記稿 下内間木村に小名として「おもせ」の記述がある[8]
  2. ^ 新編武蔵風土記稿は下内間木村としての記述であり、重瀬に限定した記述ではない[8]
  3. ^ 新編武蔵風土記稿では上内間木村の記述[9]
  4. ^ 『新編武蔵風土記稿』「何の頃よりか御料所となりて、今は川崎平衛門支配せり。」[8]
  5. ^ 『新編武蔵風土記稿』では小名西口は下内間木村の南[8]

出典

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  1. ^ 最新の人口について”. 戸田市 (2017年10月2日). 2017年10月25日閲覧。
  2. ^ 郵便番号”. 日本郵便. 2017年10月20日閲覧。
  3. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。
  4. ^ a b c d e 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』角川書店、1980年7月。
  5. ^ a b c d e f g h i j 埼玉県県民部県史編さん室『荒川 人文II -荒川総合調査報告書3-』埼玉県、1988年3月、pp324-330。
  6. ^ 町丁目別年齢別人口情報-戸田市役所HP(xlsファイル)[リンク切れ]、2010-02-06閲覧。無人のため記載がないことを確認。
  7. ^ a b c d 新編武蔵風土記稿巻之百三十二』、「大日本地誌大系(八)新編武蔵風土記稿 第八巻」雄山閣、1957年9月再版所収。
  8. ^ a b c d e f g 蘆田伊人編 1929, p. 80.
  9. ^ 蘆田伊人編 1929, p. 79.
  10. ^ a b c 朝霞市教育委員会社会教育部市史編さん室『朝霞市史普及版 あさかの歴史』朝霞市、1997年3月21日、pp144-148。
  11. ^ a b c d e f g 森春男『旧内間木地区歴史散歩』、朝霞市郷土史研究会「郷土史朝霞」所収、1983年4月1日、pp7-10。
  12. ^ 神山健吉・井上國夫・高橋長次『しきふるさと史話』埼玉県志木市教育委員会、1994年11月30日、pp122-123
  13. ^ 埼玉県県民部県史編さん室『荒川 人文II -荒川総合調査報告書3-』埼玉県、1988年3月、p328。なお、「内容(浦和市)」とされている1世帯は「内谷(浦和市)」の誤植であるため浦和市内谷に加算されている。
  14. ^ a b 平成20 年度の選奨土木遺産(その1)-社団法人土木学会HP{{{1}}} (PDF) 、2010-09-01閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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