酒井了明
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時代 | 江戸時代末期 - 明治時代中期 |
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生誕 | 文化14年1月11日(1817年2月26日) |
死没 | 明治16年(1883年)5月25日 |
改名 | 了明、玄嗣(号) |
別名 | 完之進(通称) |
墓所 | 山形県鶴岡市家中新町の大督寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 庄内藩 組頭、老中、家老 |
氏族 | 酒井氏 |
父母 | 父:酒井了安 |
兄弟 | 了繁、了明 |
子 |
了恒、調良、白井久井、黒崎研堂 養子:駒太郎 |
酒井 了明(さかい のりあき)は、出羽庄内藩組頭酒井了安の子。庄内藩家老。
人物
[編集]1865年6月、庄内藩の家老になるも、翌年に藩政改革の陰謀に兄了繁が加担していたことに関連して、謹慎処分となり、1867年9月に家老を免職となる。
戊辰戦争で名を馳せた酒井了恒(長男)、庄内柿の生みの親として有名な酒井調良(次男)、庄内婦人会会長の白井久井(長女)、書家の黒崎研堂(三男)の父である。
略歴
[編集]- 1817年2月26日、庄内藩の組頭酒井了安の子として鶴岡に生れる。
- 1843年、長男の了恒が誕生する。
- 1848年、次男の調良が誕生する。
- 1849年、兄酒井了繁の跡を継いで家督を相続する。長女の久井が誕生する。
- 1851年、庄内藩の組頭となる。
- 1852年、三男の研堂が誕生する。
- 1859年、庄内藩の老中となる。
- 1860年、蝦夷地副奉行を命ぜられて赴任する。
- 1865年、帰国して庄内藩の家老となる。
- 1866年、藩政改革陰謀の取調掛を命ぜられたが、兄了繁が陰謀に加担していたため謹慎する。
- 1867年、家老を免職となる。禄800石を減ぜられて隠居、嫡子了恒(玄蕃)に家督を譲る。
- 1883年5月25日、死去する。享年67。
出典・参考文献
[編集]- 『庄内人名辞典』 編纂・出版:庄内人名辞典刊行会