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鄭鼎 (元)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鄭 鼎(てい てい、1215年 - 1277年)は、モンゴル帝国に仕えた漢人の一人。沢州陽城県の出身。

概要

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鄭鼎は幼くして孤児となったが、自立して学問・武芸を修めた人物であった[1]。みだりに笑わないような人柄でもあったとも伝えられる。モンゴル帝国に仕えると沢州・潞州・遼州・沁州の千戸とされ、1234年甲午)からはタガイ・ガンポを司令官とする四川方面への侵攻に加わった[1]。鄭鼎は秦中で駐屯していたが、ある時興元が南宋軍の攻撃を受けると、鄭鼎は手勢を率いて南宋軍を破り興元の危地を救った。1245年乙巳)には陽城県軍民長官の地位に就いている[2]

1250年庚戌)にはクビライ雲南・大理遠征に加わり、六盤山(クビライの根拠地)から臨洮を過ぎ、またチベット(西番)を通過して大理に至った。峻険な立地の大理は攻めがたかったが、鄭鼎は奮戦して敵城を落とし、功績により馬3匹を下賜された。金沙河に至った時には、河川の淵に馬上で立つのは危険であるとして、自らクビライを背負って行軍した事もあったという[3]。大理城攻めでは昼夜を問わず果敢に攻撃を仕掛けて城を陥落させ、国主を捕らえる功績を挙げた。大理国の陥落後に本隊は北方に帰還することになったが、鄭鼎は命を受けて殿軍を務めた[1]1251年辛亥)に至って入朝し、「イェケ・バアトル(也可抜都)」の称号を授けられている[4]

1259年己未)にはクビライ率いる南宋侵攻軍に加わり、大勝関・台山寨を攻略し、守将を捕らえる功績を挙げた[1]。鄭鼎は勝勢に乗じて突出した所で泥濘につかまり、伏兵の攻撃を受けてしまったが、鄭鼎自ら3名の兵を続けざまに殺す奮戦によって無事帰還することができた。この時、クビライは直々に「勇を恃んで軽進すべきでない」と鄭鼎を戒めたという。同年9月にモンケ・カアンが急死すると、クビライは友軍のウリヤンカダイを助けるためあえて南下し鄂州を包囲した。鄭鼎は別に興国軍を攻めて南宋兵5000を破り、その将を捕虜とする功績を挙げている[5]

1260年庚申)、ウリヤンカダイ軍を助けたクビライは北上して帝位を号し、中統元年と改元した。鄭鼎は功績により平陽・太原両路万戸の地位を授けられ、クビライと対立して帝位を称したアリクブケの部下アラムダールクンドゥカイらとの戦いに挑んだ[1]。『元史』世祖本紀によると同年5月に鄭鼎は平陽・京兆両路の7千の兵をシラ・マングタイ(昔剌忙古帯)とともに率いていたという[6][7]1261年(中統2年)には命を受けて西方の雁門を守り、その後趙良弼董文炳らとともに河東南・北両路宣撫使の地位を与えられた[8]1262年(中統3年)には平陽太原宣慰使に改められ、1266年(至元3年)には平陽路総管とされた。この年、大早魃が起こったため、鄭鼎は水路を改修した。また、学校を修復するなど様々な施策を行ったため、民から慕われたという[9]

1270年(至元7年)には僉書西蜀四川行尚書省事に任命され、再び兵を率いて東川に移った。嘉定を過ぎたあたりで南宋兵と遭遇したが、長江上で敵将を捕獲し、敵船も奪う勝利を挙げた。1271年(至元8年)5月には軍前行尚書省事に改められている。1274年(至元11年)より南宋への侵攻が本格化し、1275年(至元12年)には黄州を鎮撫した。同年4月には淮西宣慰使とされ、更に1276年(至元13年)には昭毅大将軍の地位を授けられた[10]

1277年(至元14年)に湖北道宣慰使とされて鄂州に移ったが、5月に蘄州・黄州で起こった叛乱を鎮圧するため出陣したところ、樊口の戦い中に軍船が転覆し溺死した。亡くなった時には63歳であり、後に董文忠の進言により叛乱を起こした者達から没収した財産が遺族に与えられたという[11]。息子に鄭制宜がいる。

脚注

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  1. ^ a b c d e 牧野2012,363頁
  2. ^ 『元史』巻154列伝41鄭鼎伝,「鄭鼎、沢州陽城人。幼孤、能自立、読書暁大義、不妄言笑。既長、勇力過人、尤善騎射。初為沢・潞・遼・沁千戸。歳甲午、従塔海紺不征蜀、攻二里散関、屡立戦功、還屯秦中。未幾、宋将余侍郎焼絶桟道、以兵囲興元、鼎率衆修復之、破宋兵、解興元之囲。乙巳、遷陽城県軍民長官」
  3. ^ 牧野2012,363/380頁
  4. ^ 『元史』巻154列伝41鄭鼎伝,「庚戌、従憲宗征大理国、自六盤山経臨洮、下西蕃諸城、抵雪山、山径盤屈、捨騎徒歩、嘗背負憲宗以行。敵拠扼険要、鼎奮身力戦、敵敗北、帝壮之、賜馬三匹。至金沙河、波濤洶湧、帝臨水傍危石、立馬観之。鼎諌曰『此非聖躬所宜』。親扶下馬、帝嘉之。俄囲大理、晝夜急攻、城陥、擒其主、大理平。師還、命鼎居後。道経吐蕃、全軍而帰。辛亥、入朝、帝問以時務、鼎敷對詳明、帝嘉納之、賜名曰也可抜都」
  5. ^ 『元史』巻154列伝41鄭鼎伝,「己未、賜白金千両。従世祖南伐、攻大勝関、破之。継破台山寨、擒其守者胡知県、乗勝独進、前陥泥淖、遇伏兵突出葭葦間、鼎奮撃、連殺三人、餘衆遁去。帝急召鼎還、使者以聞、帝曰『為将当慎重、不可恃勇軽進』。遂分畀衛士三百人、以備不虞、且戒之曰『自今非奉朕命、毋得軽与敵接』。秋九月、帝駐蹕江滸、命諸将南渡、先達彼岸者、挙烽火為応、鼎首奪南岸、衆軍畢渡。進囲鄂州、戦益力。別攻興国軍、遇宋兵五千、力戦破之、擒其将桑太尉、責以懦怯、不忠所事、斬之」
  6. ^ 牧野2012,248-249頁
  7. ^ 『元史』巻4世祖本紀1,「[中統元年五月]乙未、立十路宣撫司。……詔平陽・京兆両路宣撫司簽兵七千人、於延安等処守隘、以万戸鄭鼎・昔剌忙古帯領之、貧不能応役者、官為資給」
  8. ^ 牧野2012,303頁
  9. ^ 『元史』巻154列伝41鄭鼎伝,「中統元年、以功遷平陽・太原両路万戸。阿藍答児・渾都海之乱、鼎分率本道兵討之。二年、詔鼎統征西等軍、戍雁門関隘。遷河東南・北両路宣撫使。三年、改授平陽太原宣慰使。至元三年、遷平陽路総管。是歳大旱、鼎下車而雨。平陽地狭人衆、常乏食、鼎乃導汾水、漑民田千餘頃、開潞河鵬黄嶺道、以来上党之粟。修学校、厲風俗、建横澗故橋以便行旅、民徳之」
  10. ^ 『元史』巻154列伝41鄭鼎伝,「七年、改僉書西蜀四川行尚書省事、将兵巡東川。過嘉定、遇蜀兵、与戦江中、擒其将李越、悉獲戦船。八年五月、改軍前行尚書省事。十一年、従伐宋。十二年、鎮黄州。夏四月、改授淮西宣慰使。十三年、加昭毅大将軍、賜白金五百両」
  11. ^ 『元史』巻154列伝41鄭鼎伝,「十四年、改湖北道宣慰使、移鎮鄂州。夏五月、蘄・黄二州叛、鼎将兵討之、戦于樊口、舟覆溺死、年六十有三。十七年、董文忠等奏『鄭也可抜都遇害、其叛人家属物産、宜悉与其子納懐』。帝従之。贈中書右丞、諡忠毅。後加贈宣忠保節功臣・平章政事・柱国、追封潞国公、諡忠粛。子制宜」

参考文献

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  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年
  • 元史』巻154列伝41鄭鼎伝
  • 新元史』巻163列伝60鄭鼎伝