鄭遇春
鄭 遇春(てい ぐうしゅん、? - 1390年)は、元末明初の軍人。濠州鍾離県の人。朱元璋に仕えて、明建国の功臣となった。兄の鄭遇霖も朱元璋に仕えて、彼の勢力拡大に貢献した。
生涯
[編集]姓名 | 鄭遇春 |
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時代 | 元代 - 明代 |
生没年 | 生年不詳 - 洪武23年(1390年) |
字・別名 | - |
本貫・出身地 | 濠州鍾離県 |
職官 | 総管→左翼元帥→六安衛指揮僉事 →朔州衛指揮副使→同知大都督府事 |
爵位 | 滎陽侯(明) |
諡号 | - |
陣営・所属 | 朱元璋 |
家族・一族 | 兄弟 : 鄭遇霖(兄) |
兄の鄭遇霖と共に勇猛な者として知られていた。鄭遇霖の隙を狙って、殺害しようとする人々がいた。鄭遇春は兄を護衛し、この危機を逃れることに成功した。人々は鄭遇霖を畏れていたが、鄭遇春は人々から賢い者であると評した。
至正13年(1353年)、定遠攻略に参加した24将の1人。朱元璋が滁州を攻略した際、鄭遇霖は先鋒となった。鉄仏岡・三郤河・大柳を攻略し、鄭遇春は累功によって、総管となった。蕪湖での戦いで、鄭遇霖が戦死し、鄭遇春が後を継いだ。この頃の朱元璋軍の武将が率いる軍は1千に満たず、鄭遇春は2つの軍を率い、諸将の軍中で最も強く勇ましかった。戦いで次々と功績をあげ、左翼元帥を授けられた。陳友諒討伐に参加し、士卒に先んじて戦い続けた。自身の功績を語ったことはなく、朱元璋はこれを奇妙に思った。六安を攻略し、六安衛指揮僉事となった。
至正27年(1367年)10月、徐達に従い、北伐に参加した。
洪武元年(1368年)、2月に山東、4月に河南・河北を攻略した。朔州を攻略して、朔州衛指揮副使となった。
洪武3年(1370年)、同知大都督府事となり、滎陽侯に封ぜられ、歳禄9百石を賜った。
洪武4年(1371年)、臨濠に駐屯し、大都督府に務めた。後に連座して、爵位を奪われたが、後に元に戻されて、再び朔州を守った。傅友徳に従い、雲南征伐に向かった。楊文らと城池を攻略した。応天府に還り、金吾諸衛を指揮して、海船180艘を造らせて、遼東へ向かわせた。陝西都司管轄下にある岷州衛の官馬を登記した。
洪武23年(1390年)、胡惟庸に通じていたとして処刑された。これにより、爵位も除かれた。