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鄒済

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

鄒 済(すう さい、1357年 - 1424年)は、明代学者官僚は汝舟。本貫杭州府余杭県

生涯

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母に孝事して知られた。博覧強記で、『春秋』を最も得意とした。余杭訓導となり、その指導は厳格であった。国子学録・国子助教を歴任した。自らの発言が罪に問われて、西安府学教授に左遷された。赴任しないうちに河間府学教授に転じた。推薦により平度州知州となった。

永楽初年、母が死去したため、鄒済は故郷で喪に服していたが、翰林院修撰の李貫の推挙を受けて、『太祖実録』の編纂に参加した。礼部儀制郎中に任じられ、階位は奉議大夫から奉政大夫に進んだ。『永楽大典』の編纂にも参加した。1407年(永楽5年)、ベトナム遠征に従軍し、遠征軍の上奏や記録を担当した。帰国すると広東右参政となった。罪に問われて、吏部郎中に左遷された。1412年(永楽10年)[1]、左春坊左庶子に転じ、皇太孫朱瞻基経学を教授した。

1421年(永楽19年)、鄒済は詹事府少詹事に進んだ[2]。階位は中順大夫となった。このころ徐善述王汝玉・馬京・梁潜らが相次いで讒言を受けて獄に下され、非業の死を遂げていた。鄒済は憂憤のうちに病にかかった。皇太子朱高熾が手紙を書いて鄒済を慰めた。1424年(永楽22年)3月6日、鄒済は死去した。享年は68。1425年洪熙元年)、太子少保の位を追贈された。は文敏といった。著書に『頤庵集』9巻があった[3]

子に鄒幹があった。

脚注

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  1. ^ 談遷国榷』巻15
  2. ^ 『国榷』巻17
  3. ^ 明史』芸文志四

参考文献

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  • 『明史』巻152 列伝第40
  • 故中順大夫詹事府少詹事鄒公墓誌銘(楊士奇『東里続集』巻38所収)