梁潜
梁 潜(りょう せん、1366年 - 1418年)は、明代の学者・官僚。字は用之、号は泊庵。本貫は吉州泰和県。
生涯
[編集]梁不移と陳順止[1]のあいだの長男として生まれた。1396年(洪武29年)、郷試に及第した。1397年(洪武30年)、四川蒼渓訓導に任じられた。推薦により四会知県となり、陽江知県や陽春知県を歴任し、いずれも清廉公平な統治で知られた。1403年(永楽元年)、南京に召し出されて『太祖実録』の編纂に参加した。実録が完成すると、翰林院修撰に抜擢された。1407年(永楽5年)、右春坊右賛善を兼ね、鄭賜に代わって『永楽大典』の編纂を総裁した。永楽帝が北京に幸すると、梁潜は召し出されて行在に赴いた。1410年(永楽8年)、南京に帰った。1413年(永楽11年)、また永楽帝に扈従して北京に赴いた。1415年(永楽13年)、礼部会試の考官をつとめた。1416年(永楽14年)、南京に帰った。
1417年(永楽15年)、永楽帝が再び北京に幸し、皇太子朱高熾が南京で監国した。永楽帝は自ら皇太子に侍従する臣下を選び、翰林院からは楊士奇を選び、梁潜にこれを補佐させた。陳千戸という者がいて、勝手に民衆の財産を奪ったことから、罪に問われて交趾に流された。皇太子はその軍功を思って、陳千戸を呼び戻した。ある人が「陛下が流刑に処した罪人を皇太子が曲げて赦しました」と讒言した。永楽帝は怒って、陳千戸を殺し、梁潜と司諫の周冕を逮捕して行在に連行し、自ら詰問した。梁潜らは実際の経緯を詳細に説明した。永楽帝は「事は梁潜によるとはいえない」と楊栄と呂震にいいながら、潔白な者はいないとして、ともに獄に繋いだ。1418年(永楽16年)9月17日[2]、梁潜は礼法にそむき勝手な行動をしたとして、処刑された。享年は53。著書に『泊庵集』12巻[3]があった。
妻子
[編集]妻
[編集]- 楊氏(梁潜が非命に斃れたと知ると、絶食して死んだ)
子
[編集]- 梁果
- 梁楘
- 梁楫
- 梁楡
女
[編集]- 梁氏(袁俊にとついだ)
- 梁氏(劉凖にとついだ)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『明史』巻152 列伝第40
- 梁用之墓碣銘(楊士奇『東里文集』巻17所収)