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郭侃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

郭 侃(かく かん、? - 1277年)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人将軍の一人。字は仲和。

主に砲兵部隊の長として、東アジアから西アジアに至る広大な地域を転戦し功績を挙げたことで知られる。

概要

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生い立ち

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華州鄭県の人で、唐代安史の乱鎮圧に活躍した郭子儀の末裔とされる[1]。郭侃の祖父の郭宝玉、父の郭徳海はもともと金朝に仕える「猛安」であったが、新興のモンゴル帝国に降って各地の征服戦争に活躍した人物であった[2]。郭侃は幼少時に真定地方の大軍閥である史天沢に器量を見出され、史家で養われたという[3]

元史』郭宝玉伝 郭侃条によると、成年後は百戸長に任ぜられ、勇敢にして謀略に長けた人物として知られた。1232年壬辰)の第二次モンゴル・金戦争では、まず衛州を奪還せんとする伯撒率いる4万の金軍を撃退する功績を挙げた。その後黄河を渡ると、開封攻囲戦では閼伯台にて敵兵を破り、またスブタイとともに開封西門を攻め立てて陥落に追い込んだ。開封の陥落後、郭侃は功績により総把の地位を授けられて史天沢とともに太康に駐屯し、また千戸長に任ぜられた[4]

西征への従軍

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1252年壬子)にはモンゴル高原の首都カラコルムに赴き、そこで「Čaqmaq noyan>抄馬那顔」の称号を授けられてフレグの西方遠征に従軍するよう命じられた[5][6]。Čaqmaqは「砲手」を意味する単語であり、郭侃は砲兵部隊の長として西征軍に従軍したようである[5]

1253年癸丑)にペルシアに到着するとムラーヒダ(木乃兮)[7]、すなわちニザール派暗殺教団)を攻め、郭侃は敵兵5万を破り128城を下したという[8]。ニザール派最大の要衝であるギルドクーフ(乞都卜)は天険の要塞にして守兵も士気が高くモンゴル軍は攻めあぐねたが、郭侃は砲によってこれを攻め[9]、ニザール派の平定に功績を挙げた[10][11]

1257年丁巳)正月にはロル地方に至り、伏兵を用いることで敵兵を尽く殺し、現地のスルタンを投降させた[12]。その後バグダード包囲戦に加わり[13]、郭侃はまず「西城」を破った後「東城」の殿宇を占領し、七十二弦の琵琶・五尺の珊瑚燈などを接収したという。バグダードはチグリス川によって囲まれていたが、郭侃は浮梁を建造して逃亡しようとするアッバース朝第37代カリフムスタアスィム[14] を捕虜としたとされる[15]。その後、バグダードから逃れた紂答児を追撃してこれを斬り、300城余りを平定したという[16]

その後、郭侃は更に西行して天房(カーバ神殿)、ミスル/密昔児(=マムルーク朝エジプト)を征服し[17]1258年戊午)には地中海を渡ってフランク/富浪まで収めたとされるが[18]、これらは他の史料と整合せず全くの虚構に過ぎない[19]。なお、『元史』郭侃伝によるとミスルのスルタン(=ムザッファル・クトゥズ)が「東天将軍(郭侃)は神人である」と称賛したという[20]

西方への進軍を終えた郭侃はシーラーズを過ぎ、1259年己未)にはケルマーンに至った[21]。この頃、同じく東方からやってきた漢人である常德もフレグの下に滞在しており、後に常徳の旅程を記した『西使記』の記述は郭侃から提供された情報も含まれているのではないかと考えられている[22]。そして郭侃は西征の功績を南宋に親征中の第4代皇帝モンケ・カアンに報告するべく、常徳と入れ替わるようにして東方に帰還した[3]

東方での活躍

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西征の報告をすべきモンケ・カアンが四川で急死していたため、東方に帰還した郭侃はまず鄭州に戻り屯田を指揮した[23]。その後、主筋の史天沢を通じて郭侃は第5代皇帝クビライに仕えるようになり、クビライの配下として軍政および内治に関して有用な多くの献言をしたという[24]中統2年(1261年)、江漢大都督府理問官に抜擢され、中統3年(1262年)には李璮の乱平定に活躍している[25]

至元2年(1265年)、史天沢の異動に伴って滕州同知となり、至元3年(1266年)には准北に36ヶ所の屯田を立て南宋遠征の足掛かりとするよう献策した。至元4年(1267年)、高唐令の地位を得て夏津・武城等の5県を治め、至元5年(1268年)には叛乱を起こした呉乞児・道士の胡王らを討伐した[26]

至元7年(1270年)に万戸長に任命され、襄陽包囲戦(襄陽・樊城の戦い)にも加わっている。 南宋の平定後、寧海州知州に任官されたが、任官一年にして亡くなった[27]。『元史』郭侃伝は郭侃について、「行軍には紀律があり、常に野営して風雨でも民家に入ることはなかった。至る所各地で学問・農業を振興したため、吏民は畏服した」と評している[28]

史実での郭侃

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フレグの西征については著者自らが遠征軍に属しており信頼性の高い『世界征服者史』と、フレグの末裔による国家編纂史書『集史』が最も詳しく、基本史料となっている[29]。しかしこれらのペルシア語史料には郭侃に該当する人物について一切言及しておらず、研究者の多くは『元史』郭侃伝は郭侃の戦功を誇大に伝えたもので、史実とは認めがたいと考えている[30]

特に、『元史』郭侃伝の伝えるカシミール地方進出、メッカのカーバ神殿制圧、ミスルやフランクへの進出等は明らかに史実と認められない、全くの虚構であると指摘されている[31]。一方で、『集史』などによるとバグダードの戦いでは砲撃によって城壁を崩したとの記述があり、これこそが郭侃率いる砲兵部隊の功績ではないかとも指摘されている[32]

脚注

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  1. ^ 宮2018,604頁
  2. ^ 小林1972,254-256頁
  3. ^ a b 宮2018,585頁
  4. ^ 『元史』巻149列伝36郭侃伝「郭宝玉字玉臣、華州鄭県人、唐中書令子儀之裔也。……侃字仲和、幼為丞相史天沢所器重、留于家而教養之。弱冠為百戸、鷙勇有謀略。壬辰、金将伯撒復取衛州、侃拒之、破其兵四万於新衛州。遂渡河、襲金主、至帰徳、敗其兵於閼伯台、即従速不台攻汴西門、金元帥崔立降。以功授総把。従天沢屯太康、復以下徳安功為千戸」
  5. ^ a b 陳2015,71頁
  6. ^ 『元史』巻149列伝36郭侃伝「壬子、送兵仗至和林、改抄馬那顔。従宗王旭烈兀西征」
  7. ^ 本田1991,168頁
  8. ^ 『元史』巻149列伝36郭侃伝「癸丑、至木乃兮。其国塹道、置毒水中、侃破其兵五万、下一百二十八城、斬其将忽都答而兀朱算灘。算灘、華言王也」
  9. ^ 『元史』郭侃伝によると郭侃は守将のホージャ・ナースィル(火者納失児)を投降させたとあるが、ペルシア語史料によればギルドクーフは君主の投降後も長く抵抗を続け1272年まで健在であった要塞であり、明らかに『元史』郭侃伝には何らかの誤解がある(本田1991,170頁)。
  10. ^ 『元史』郭侃伝には「フレグは郭侃を派遣してルクヌッディーン・フールシャー(兀魯兀乃算灘)に来降するよう説得させた。またその父のアラー・ウッディーン・ムハンマド(阿力)が西城に拠って抵抗を続けていたため、郭侃はこれを破って東城に追い詰め、これを殺した」とあるが、この時既にアラー・ウッディーン・ムハンマドは死去している上、フールシャーとの投降の交渉経緯についてもペルシア語史料と整合せず史実と認められない(陳2015,95頁)
  11. ^ 『元史』巻149列伝36郭侃伝「丙辰、至乞都卜。其城在擔寒山上、懸梯上下、守以精兵悍卒、乃築夾城囲之、莫能克。侃架砲攻之、守将火者納失児開門降。旭烈兀遣侃往説兀魯兀乃算灘来降。其父阿力拠西城、侃攻破之、走拠東城、復攻破殺之」
  12. ^ 宮2018,606頁
  13. ^ 『元史』郭侃伝によると、郭侃はロル(兀里児)からバグダードに向かう前にカシミール(乞石迷)に赴いたとされるが、ペルシア語史料にはこの時点でカシミールに軍を派遣したとの記録はなく、事実と認められない(陳2015,95-96頁)
  14. ^ 『元史』郭侃伝はアッバース朝の君主について「父子相伝四十二世」とするが、明らかに誤伝である(陳2015,98頁)
  15. ^ 『集史』フレグ・ハン紀にもフレグの命によって舟橋を作り、投石機・見張りを置いて川を渡って逃げようとするものを防いだと記されている。
  16. ^ 『元史』巻149列伝36郭侃伝「丁巳正月、至兀里児城、伏兵、下令聞鉦声則起。敵兵果来、伏発、尽殺之、海牙算灘降。又西至阿剌汀、破其游兵三万、禡拶答而算攤降。至乞石迷部、忽里算灘降。西戎大国也、地方八千里、父子相伝四十二世、勝兵数十万。侃兵至、破其兵七万、屠西城。又破其東城、東城殿宇、皆搆以沈檀木、挙火焚之、香聞百里、得七十二弦琵琶・五尺珊瑚燈檠。両城間有大河、侃預造浮梁以防其遁。城破、合里法算灘登舟、覩河有浮梁扼之、乃自縛詣軍門降。其将紂答児遁去、侃追之、至暮、諸軍欲頓舎、侃不聴、又行十餘里、乃止。夜暴雨、先所欲舎処水深数尺。明日、獲紂答児、斬之、抜三百餘城」
  17. ^ 『元史』巻149列伝36郭侃伝「又西行三千里、至天房、其将住石致書請降、左右以住石之請為信然、易之不為備、侃曰『欺敵者亡、軍機多詐、若中彼計、恥莫大焉』。乃厳備以待。住石果来邀我師、侃与戦、大敗之、巴児算灘降、下其城一百八十五。又西行四十里、至密昔児。会日暮、已休、復駆兵起、留数病卒、西行十餘里頓軍、下令軍中、銜枚転箭。敵不知也、潜兵夜来襲、殺病卒、可乃算灘大驚曰『東天将軍、神人也』。遂降」
  18. ^ 『元史』巻149列伝36郭侃伝「戊午、旭烈兀命侃西渡海、収富浪。侃喩以禍福、兀都算灘曰『吾昨所夢神人、乃将軍也』。即来降」
  19. ^ 陳2015,101頁
  20. ^ 『元史』郭侃伝は「東天将軍、神人也」と称えた人物の名を「可乃算灘」とするが、恐らく「可乃」は「可禿」の誤りで、「クトゥズ・スルタン」の音写ではないかと考えられる(陳2015,101頁)
  21. ^ 『元史』巻149列伝36郭侃伝「師還、西南至石羅子、敵人来拒、侃直出掠陣、一鼓敗之、換斯干阿答畢算灘降。至賓鉄、侃以奇兵奄撃、大敗之、加葉算灘降。己未、破兀林游兵四万、阿必丁算灘大懼、来降、得城一百二十。西南至乞里彎、忽都馬丁算灘来降」
  22. ^ 宮2018,589頁
  23. ^ 『元史』巻149列伝36郭侃伝「西域平。侃以捷告至釣魚山、会憲宗崩、乃還鄧、開屯田、立保障」
  24. ^ 『元史』巻149列伝36郭侃伝「世祖即位、侃上疏陳建国号・築都城・立省台・興学校等二十五事、及平宋之策、其略曰『宋拠東南、以呉越為家、其要地、則荊襄而已。今日之計、当先取襄陽、既克襄陽、彼揚・廬諸城、弾丸地耳、置之勿顧、而直趨臨安、疾雷不及掩耳、江淮・巴蜀不攻自平』。後皆如其策」
  25. ^ 『元史』巻149列伝36郭侃伝「中統二年、擢江漢大都督府理問官。三年二月、益都李璮及徐州総管李杲哥倶反、宋夏貴復来犯辺。史天沢薦侃、召入見、世祖問計所出、曰『群盗窃発、猶柙中虎。内無資糧、外無救援、築城環之、坐待其困、計日可擒也』。帝然之、賜尚衣弓矢。馳至徐、斬杲哥。夏貴焚廬舎、徙軍民南去、侃追貴、過宿遷県、奪軍民万餘人而還。賜金符、為徐・邳二州総管。杲哥之弟驢馬、復与夏貴以兵三万来擾辺境、侃出戦、斬首千餘級、奪戦艦二百」
  26. ^ 『元史』巻149列伝36郭侃伝「至元二年、有言当解史天沢兵権者、天沢遂遷他官、侃亦調同知滕州。三年、侃上言『宋人羈留我使、宜興師問罪。淮北可立屯田三百六十所、毎屯置牛三百六十具、計一屯所出、足供軍旅一日之需』。四年、徙高唐令、兼治夏津・武城等五県。五年、邑人呉乞児・済南道士胡王反、討平之」
  27. ^ 『元史』巻149列伝36郭侃伝「七年、改白馬令、僧臧羅漢与彰徳趙当驢反、又平之。帝以侃習於軍務、擢為万戸、従軍下襄陽、由陽羅上流渡江。江南平、遷知寧海州、居一年、卒」
  28. ^ 『元史』巻149列伝36郭侃伝「侃行軍有紀律、野爨露宿、雖風雨不入民舎、所至興学課農、吏民畏服。子秉仁・秉義」
  29. ^ 本田1991,167頁
  30. ^ 陳2015,95頁
  31. ^ 陳2015,100-101頁
  32. ^ 陳2015,96-97頁

参考文献

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  • 小林高四郎『元史』明徳出版社、1972年
  • 陳得芝「劉郁『〔常德〕⻄使記』校注」『中華文史論叢』第117期、2015年
  • 本田實信『モンゴル時代史研究』東京大学出版会、1991年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 元史』巻149列伝36郭侃伝

関連項目

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