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那須資徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
那須資徳
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文12年(1672年
死没 宝永5年6月25日1708年8月11日
改名 政直(初名)→資徳
別名 主殿[1]通称:与一[1]
戒名 清光院殿月峯常心大居士
墓所 東京都台東区上野桜木の養寿院
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉
下野烏山藩
氏族 津軽氏那須氏
父母 父:津軽信政、母:不卯姫(増山正利娘)[2]
養父:那須資弥
兄弟 男子、津軽信寿資徳、男子、津軽寿世
春台院(堀親賢正室)、松平信清正室、他4女
養兄弟:増山正弥福原資寛
花房正矩
資隣(長男)、福原銕之進(次男)、女子
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那須 資徳(なす すけのり)は、江戸時代前期から中期にかけての旗本大名下野国烏山藩2代藩主。

経歴

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陸奥国弘前藩4代藩主・津軽信政の三男として誕生した。天和3年(1683年)閏5月1日、母方の大叔父・那須資弥の養子となった。同年7月11日、江戸幕府5代将軍徳川綱吉御目見する[2]貞享4年(1687年)8月25日、資弥の死去により家督を相続した[1]が、同年10月14日、改易となり、実父・津軽信政の許に預けられた[1]元禄7年(1694年)閏5月から翌年3月にかけて、信政に従って弘前城に赴き、寺社参詣・湯治などをした。

元禄13年(1700年)5月20日、信政の運動により旗本に取り立てられて、小普請に所属する。後に寄合に所属した。元禄14年(1701年)12月25日、下野那須郡内1000石を与えられた。宝永2年(1705年)6月3日、津軽家より合力米3000石を得た。宝永5年(1708年)4月5日、交代寄合となった。同年6月25日、死去、享年37。

烏山騒動

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貞享4年(1687年)8月25日、養子の資徳が那須家の家督を相続したが、実子で次男の資寛とその生母が、資徳の家督相続を不当であると幕府に訴えたことより、藩領内に隠されていた次男の存在が発覚した。これは幕府に対する虚偽申請であり、同年10月14日に幕府は那須家を改易処分とした。資徳は生家の津軽家に預けられ、津軽信政は叱責処分を受けた。十数年後の元禄13年(1700年)5月20日、幕府に対する津軽家の長い嘆願により、資徳は旗本1千石として再度取り立てられて、那須家の家名は復活した。

その後も交代寄合那須衆の那須家と津軽藩は関係を保ち続け、明治維新を迎えたのち、那須家は津軽氏を頼って青森県に移住している。

脚注

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  1. ^ a b c d 『那須家譜』
  2. ^ a b 『寛政重修諸家譜』

出典

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外部リンク

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