邢譲
邢 譲(けい じょう、宣徳2年(1427年)- 成化7年8月18日(1471年9月2日))は、明代の学者・官僚。字は遜之。本貫は平陽府襄陵県。
生涯
[編集]邢茂政と郭氏のあいだの子として生まれた。正統9年(1444年)、郷挙により国子監に入った。李時勉に器量を認められ、劉珝と名声を等しくした。正統13年(1448年)、進士に及第し、翰林院庶吉士に任じられた。正統14年(1449年)、翰林院検討に進んだ。
景泰元年(1450年)、李実がオイラトから帰国すると、英宗を迎えるために再び使者を派遣するよう請願した。景泰帝は許可しなかった。邢譲は「上皇を迎えないのであれば、オイラトに対する問罪の師を起こすべきである」と上疏した。天順末年、父が死去したため、邢譲は辞職して帰郷し、喪に服した。服喪期間が終わらないうちに、邢譲は『英宗実録』の編纂事業に起用され、翰林院修撰に進んだ。
成化2年(1466年)、邢譲は国子祭酒に転じた。成化4年(1468年)、慈懿太后が崩御し、廟礼について議論されると、邢譲は属僚を率いて成化帝を諫めた。両京の国学の教官は、官僚への選抜を受けられないのが通例であったが、邢譲らが言上して、科目によって官僚の成績評価を得られるようにした。邢譲は師道をもって自任し、『辟雍通志』を編纂し、諸生を率いて『小学』や経書を暗唱させた。
成化5年(1469年)、邢譲は礼部左侍郎に抜擢された。成化7年(1471年)3月、国子監で飲食銭をめぐる事件があり、邢譲は国子祭酒陳鑑・国子司業張業・典籍王允らとともに罪に問われて死罪となった。一命を贖って民とされ、帰郷した。この年の8月18日に死去した。享年は45。著書に『国子監志』22巻[1]があった。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『明史』巻163 列伝第51
- 明故前嘉議大夫礼部左侍郎邢遜之墓銘(岳正『類博稿』巻10所収)