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遊佐氏 (三好長慶継室)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

遊佐氏(ゆざし[注釈 1]生没年不詳)は、阿波出身の戦国大名三好長慶継室政長流畠山氏家臣[4]河内守護代遊佐長教の養女[5][6]

生涯

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天文18年(1549年)5月[7]、遊佐長教の娘である遊佐氏が、当時摂津下郡の守護代となっていた[8]三好長慶に嫁いだ[9]。父・長教が大永2年(1522年)生まれ[10]の三好長慶と同世代とみられることから、実の娘でなく養女だったと考えられる[6][11]

三好長慶は元々、細川京兆家当主[12]細川晴元に従っていたが、天文17年(1548年)、同じく晴元に従う丹波波多野秀忠が死去したのを機に、正室としていたその娘・波多野氏を離縁[13]。同年10月、細川氏綱を擁立する遊佐長教と同盟を結び[14]、遊佐氏を継室に迎える契約を結んでいた[7]。遊佐氏との婚姻後の天文18年(1549年)6月、長慶は遊佐長教と共に、江口の戦いで細川晴元勢を打ち破っている[15]

天文22年(1553年)に、長慶は越水城兵庫県西宮市)から芥川山城大阪府高槻市)へ拠点を移し[16]、それ以降、京都公家や寺社の使いが芥川山城を訪れているが、長慶の妻の遊佐氏について公家や寺社の記録に記述はない[17]。このことから、遊佐氏は早くに死去したか、あるいは天文20年(1551年)に養父の長教が暗殺されたのをきっかけに実家に帰ったものと考えられる[17]

脚注

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注釈

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  1. ^ 遊佐は「ゆさ」と読まれることが多いが[1][2]、当時の読みは「ゆざ」と考えられる[3]

出典

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  1. ^ 遊佐長教」『朝日日本歴史人物事典、デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E9%81%8A%E4%BD%90%E9%95%B7%E6%95%99コトバンクより2023年11月17日閲覧 
  2. ^ 遊佐氏」『日本大百科全書(ニッポニカ)、世界大百科事典 第2版、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』https://kotobank.jp/word/%E9%81%8A%E4%BD%90%E6%B0%8Fコトバンクより2023年11月17日閲覧 
  3. ^ 天野 2023, p. 364.
  4. ^ 天野 2023, pp. 364–375.
  5. ^ 天野 2023, pp. 194, 206.
  6. ^ a b 小谷利明. “遊佐長教とは”. 中世文書2 遊佐長教(ゆざながのり)書状. 八尾市立歴史民俗資料館. 2024年2月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年5月27日閲覧。
  7. ^ a b 天野 2021, p. 64.
  8. ^ 天野 2021, pp. 49–50; 天野 2023, pp. 192–193.
  9. ^ 天野 2021, p. 64; 天野 2023, pp. 206, 374.
  10. ^ 天野 2023, p. 191.
  11. ^ 天野 2023, pp. 367, 374.
  12. ^ 天野 2023, p. 131.
  13. ^ 天野 2021, pp. 50–51, 64; 天野 2023, p. 194, 205–206.
  14. ^ 天野 2023, p. 374.
  15. ^ 天野 2021, pp. 64–65; 天野 2023, pp. 194–195.
  16. ^ 天野 2021, p. 73; 天野 2023, pp. 192–193, 196–197.
  17. ^ a b 天野忠幸『三好長慶―諸人之を仰ぐこと北斗泰山―』ミネルヴァ書房ミネルヴァ日本評伝選〉、2014年、140頁。ISBN 978-4-623-07072-5 

参考文献

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  • 天野忠幸『三好一族―戦国最初の「天下人」』中央公論新社中公新書〉、2021年。ISBN 978-4-12-102665-1 
  • 天野忠幸 編『戦国武将列伝8 畿内編 下』戎光祥出版、2023年。ISBN 978-4-86403-447-0 
    • 古野貢「細川晴元―澄元の後継者にして高国のライバル」(128–137頁)
    • 福島克彦「波多野秀忠・元秀―丹波の覇権を握った京兆家被官」(143–158頁)
    • 天野忠幸「三好長慶―足利将軍を擁さない畿内の"覇者"」(191–204頁)
    • 天野忠幸「三好義興・義継―長慶の後継者としての重圧」(205–221頁)
    • 小谷利明「遊佐長教―三好長慶を天下に向かわせた舅」(364–375頁)