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逸然性融

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
逸然から転送)
逸然性融
1601年 - 1668年
山本若麟筆「祖師源流図」部分 絹本着色 興福寺
尊称 請法東伝
生地 浙江省杭州府銭塘県
没地 興福寺
宗派 臨済宗黄檗派
寺院 興福寺
黙子如定
弟子 澄一道亮
著作 『隠元語録』・『五灯厳統』
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逸然性融(いつねん しょうゆう、1601年8月28日万暦29年8月1日)- 1668年8月21日寛文8年7月14日))は、中国末に日本に渡来した僧である。俗姓は李氏。逸然は、性融は法諱である。浪雲庵王・煙霞比丘・煙霞道人とする。

隠元隆琦を日本に招聘し黄檗宗の発展に尽くした。また画僧としても知られ羅漢図・神仙図などの仏画・人物図を得意とした。北宗画風の新様式を伝え長崎漢画の祖(唐絵の祖)とされる。門弟に河村若芝渡辺秀石らがいる。

生涯

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白衣観音観瀑図 即非賛 1665年 長崎歴史文化博物館

1601年(万暦29年)、浙江省杭州府銭塘県に生まれる。

1641年寛永18年)[注 1]明末反乱期の動乱を避けて41才の時に商人として貿易のために長崎へ来舶した[1]1644年正保元年)、長崎興福寺の第2代住持黙子如定の許で帰依し仏門に入る[2]1645年正保2年)には、黙子が隠退し、第3代住持の座を継承した[3]

1641年寛永18年)、黙子如定が住持の隠居所とするため幻寄山房東盧庵を建てる[4]

1652年承応元年)、無心性覚の懇願により、隠元隆琦を招請した。結果、4次にわたる招請状の往還の末、1654年(承応3年)7月に、隠元の来日が成った。逸然はこれを慶び以降、引首印に「請法東伝」の語句を刻み書画に捺した。

隠元が渡来すると、逸然は、興福寺の住持を隠元に移譲した上で、自身は監寺と就ったが、翌年、隠元が摂津国普門寺に移転したため、住持に復帰した。

1656年明暦2年)、澄一道亮に住持の座を譲り退隠した[2]

1657年(明暦3年)には、『隠元語録』と『五灯厳統』(費隠通容撰)を板行した。

1658年万治元年)頃から幻寄山房東盧庵に住み始める[5]

1668年(寛文8年)7月、東盧庵で没した。享年68[6]。墓所も興福寺後山にある。

作品

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達磨騎象図 隠元賛 絹本着色
羅漢遊戯図 1664年 紙本着色
  • 「巌上観音菩薩像」長崎歴史文化博物館
  • 「白衣観世音菩薩観瀑図」1665年 同上
  • 「普賢・文殊菩薩像双幅」同上
  • 「芦葉達磨図」同上
  • 「布袋図」同上
  • 「布袋図」1664年 神戸市立博物館
  • 「釈迦・普賢・文殊像」崇福寺

脚注

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注釈

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  1. ^ 正保元年(1644)説と正保2年説もある[1]

出典

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  1. ^ a b 大槻幹郎 1975, p. 68.
  2. ^ a b 徐興慶 & 劉序楓 2018, p. 101.
  3. ^ 大槻幹郎 1975, pp. 70–71.
  4. ^ 大槻幹郎 1975, p. 70.
  5. ^ 徐興慶 & 劉序楓 2018, pp. 101–102.
  6. ^ 大槻幹郎 1975, p. 66.

参考文献

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  • 阿野露団『長崎の肖像 長崎派の美術家列伝』形文社、1995年12月22日。全国書誌番号:97006152 
  • 大槻幹郎「初期黄檗の画僧 - 逸然性融について」『禅文化』78号、禅文化研究所、1975年9月20日、66-73頁。doi:10.11501/6082273ISSN 0514-3012 
  • 古賀十二郎『長崎画史彙伝』大正堂書店、1983年11月。doi:10.11501/12744149全国書誌番号:85000844 
  • 徐興慶、劉序楓「第三章 隠元禅師と日中雅交」『十七世紀の東アジア文化交流 - 黄檗宗を中心に』國立臺灣大學出版中心、2018年6月19日。ISBN 9789863502852https://books.google.co.jp/books?id=SyeDDwAAQBAJ&lpg=PP1&hl=ja&pg=PP1#v=onepage&q&f=false