コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

近藤鎮三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
こんどう やすぞう / ちんぞう

近藤 鎮三
生誕 (1849-05-28) 1849年5月28日嘉永2年4月7日
武蔵国江戸本郷(現・東京都文京区
死没 (1894-08-04) 1894年8月4日(45歳没)
東京府東京市下谷区谷中三崎町(現・東京都台東区谷中
墓地 長明寺(東京都台東区谷中)
国籍 日本の旗 日本
別名 昌綱(
職業 官吏検察官
肩書き 従五位勲六等
配偶者 繁(先妻)、稲(後妻)
子供 太郎(長男)、銕次(次男)、はる(次女・種田竜夫人)
テンプレートを表示

近藤 鎮三(こんどう やすぞう / ちんぞう[1]1849年5月28日嘉永2年4月7日) - 1894年明治27年)8月4日)は、明治時代の日本文部司法官僚検察官昌綱[2]

来歴

[編集]

嘉永2年4月7日1849年5月28日)、旗本近藤庫三郎の長男として江戸本郷に生まれる[2]幕府洋学研究教育機関・開成所ドイツ語を学び、慶応元年(1865年)頃に開成所教授手伝並出役となったのち[3]、慶応3年(1867年)8月、幕府外国方通弁御用出役に転じた[4]。幕府崩壊後は明治元年(1868年)10月に静岡学問所四等教授となって静岡藩に移住[5]。 翌年7月、新政府が官制改革により大学校(同年12月に大学と改称)を設けると9月に大学校中得業生に任命され、以後、翌年2月に大学大得業生、11月に大学少助教、大学が廃され文部省が置かれた明治4年(1871年)7月に文部権大助教に進み、翌8月の官制改革で文部中助教となった[6]。同年10月、岩倉使節団理事官として欧米に派遣される文部大丞田中不二麿の随行を命じられ、11月に横浜を出港。米国に滞在したのち、翌年1月(1872年3月)に田中に先立ってベルリンに向かい、ドイツの学事調査を担当した[7]。明治6年(1873年)2月には語学力を買われてベルリン公使館在勤の外務省二等書記官となったが、病のため明治7年(1874年)2月に帰国している[8]

帰国後は3月に文部省八等出仕、翌明治8年(1875年)3月に文部省報告課雇となり、明治13年(1880年)5月には准奏任文部省御用掛となって報告局に勤務[9]。この間、ドイツ語教育文献の翻訳に従事した。明治8年11月に訳書『母親の心得』を出版しているほか、文部省刊行の『文部省雑誌』(のち『教育雑誌』、『文部省教育雑誌』と改題)には近藤の翻訳記事が多数掲載されている[10]。また、明治14年(1883年)9月に独逸学協会が結成されると会員となった[11]

明治17年(1884年)6月、司法少書記官に就任し、第一局(のち記録局)に勤務。さらに明治19年(1886年)1月まで文部省御用掛を兼ね、引き続き文部省報告局にも勤務した[12]。明治19年2月、在官のまま自費でのドイツ留学を許されるとともに司法部内行政及裁判事務調査を命じられ、東京始審裁判所検事に転じた上で[13]翌3月に横浜を出港。ベルリン大学ハイデルベルク大学ライプツィヒ大学に学び、明治23年(1890年)7月頃に帰国した[14]。その後、同年8月に大審院勤務となり、明治25年(1892年)12月には長野地方裁判所検事正となったが、病により翌年3月に退官[15]。以後療養に務めたものの、明治27年(1894年8月4日東京下谷区谷中三崎町の自邸で死去した。享年46。墓所は東京都台東区谷中の長明寺[16]

親族

[編集]

著作

[編集]
職務上の翻訳
訳書
  • 母親の心得』 近藤鎮三、1875年11月
    • 田中ちた子、田中初夫編纂 『家政学文献集成 続編 明治期VII』 渡辺書店、1970年8月
著作
  • 市川文吉送別文(山岸光宣編 『幕末洋学者欧文集』 弘文荘、1940年11月)
    日本学士院 「『市川文吉送別文集』について : いわゆる幕末洋学者欧文集」(『日本学士院紀要』第35巻第2号、1978年3月、NAID 40002849203)、上村(1991・2001)に翻刻されている。
  • 加納正巳 「近藤鎮三「欧米回覧私記」」(『静岡女子大学研究紀要』第20号、1987年2月、NAID 40001528660

脚注

[編集]
  1. ^ 上村(2001)、4頁。
  2. ^ a b 上村(2001)、3頁。
  3. ^ 上村(2001)、4-5頁。
  4. ^ 「外国奉行支配通弁方・翻訳方の一考察」(長尾正憲著 『福沢屋諭吉の研究』 思文閣出版、1988年7月、ISBN 4784205179)72-73頁。加藤英明 「徳川幕府外国方:近代的対外事務担当省の先駆 : その機構と人」(横山伊徳編 『幕末維新論集 7 幕末維新と外交』 吉川弘文館、2001年8月、ISBN 4642037276)42頁。宮地正人混沌の中の開成所」(東京大学編 『学問の過去・現在・未来 第一部 学問のアルケオロジー』 東京大学〈東京大学コレクション〉、1997年12月、ISBN 4130202057)35頁。
  5. ^ 静岡県編 『静岡県史 資料編16 近現代一』 静岡県、1989年3月、173-175頁、181頁。樋口雄彦著 『静岡学問所』 静岡新聞社〈静新新書〉、2010年8月、ISBN 9784783803614、17頁、29頁、173頁。
  6. ^ 上村(2001)、12-16頁。
  7. ^ 倉沢剛著 『学制の研究』 講談社、1973年3月、369頁。小林哲也 「『理事功程』研究ノート」(『京都大学教育学部紀要』第20号、1974年3月、NAID 40000743240)85-86頁、84頁。上村(2001)、13頁、16-19頁。
  8. ^ 上村(2001)、13頁、19頁。
  9. ^ 上村(2001)、13頁。『文部省職員録 明治十四年五月七日改』 6頁。『文部省職員録 明治十七年二月二日改』 8頁。
  10. ^ 上村(2001)、19-21頁。小嶋。
  11. ^ 上村(2001)、21頁。
  12. ^ 『官報』第292号、1884年6月20日、4頁同誌第299号、1884年6月28日、5頁同誌第315号、1884年7月17日、3頁同誌第298号、1884年6月27日、2頁同誌第751号、1886年1月6日、23頁同誌第299号、1884年6月28日、5頁
  13. ^ 『官報』第801号、1886年3月8日、89頁同誌第803号、1886年3月10日、113頁
  14. ^ 上村(2001)、21-27頁。「明治一九年渡独した司法官たち」(鈴木正裕著 『近代民事訴訟法史・日本2』 有斐閣、2006年8月、ISBN 4641134693)。
  15. ^ 『官報』第2138号、1890年8月14日、163頁同誌第2848号、1892年12月23日、248頁同誌第2916号、1893年3月23日、268頁。上村(2001)、27頁。
  16. ^ 上村(2001)、27-28頁。
  17. ^ a b 上村(2001)、4頁、28頁。
  18. ^ 白山友正著 『武田斐三郎伝』 北海道経済史研究所〈北海道経済史研究所叢書〉、1971年8月、58-59頁。宮崎箕生 「順動丸による会津救援」(『会津史談』第52号、会津史談会、1979年5月)140-141頁、146頁、149頁。『横須賀海軍船廠史』 191-192頁196頁199頁218頁221-222頁『掌中官員録』明治8年7月、67丁
  19. ^ 倉沢剛著 『幕末教育史の研究 二 諸術伝習政策』 吉川弘文館、1984年2月、ISBN 4642032525、237頁。
  20. ^ 近藤陸三郎」(井関九郎監修 『大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 発展社、1930年9月)。
  21. ^ 前掲宮崎、141頁。
  22. ^ 石川清編輯 『近藤銕次翁追想録』 電気化学工業、1952年11月、183-185頁。
  23. ^ a b 上村(2001)、28頁。
  24. ^ 近藤太郎」(古林亀治郎編輯 『現代人名辞典』 中央通信社、1912年6月)。前掲 『近藤銕次翁追想録』 188-189頁。
  25. ^ 「近藤銕次」(野依秀市編輯 『明治大正史 第拾四巻(人物篇)』 実業之世界社、1930年12月)。前掲 『近藤銕次翁追想録』 505-506頁。
  26. ^ 「種田竜」(猪野三郎編輯 『昭和三年版 大衆人事録』 帝国秘密探偵社ほか、1927年10月)。前掲 『近藤銕次翁追想録』 179-182頁。

参考文献

[編集]
  • 上村直己 「近藤鎮三略伝 : 初期ドイツ学者の歩んだ道」(『熊本大学教養部紀要』外国語・外国文学編第26号、1991年1月、NAID 110001045178
    • 上村直己著 『明治期ドイツ語学者の研究』 多賀出版、2001年3月、ISBN 4811561317
  • 「クレンケ、ハルトマン著・近藤鎮三訳『母親の心得』」(小嶋秀夫著 『子育ての伝統を訪ねて』 新曜社、1989年10月、ISBN 4788503522

関連文献

[編集]

外部リンク

[編集]