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近藤忠義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

近藤 忠義(こんどう ただよし、1901年11月10日[1] - 1976年4月30日[1])は、日本の日本文学者法政大学名誉教授。専門は日本近世文学、特に近松門左衛門などの歌舞伎研究。樋口一葉などの近代文学も論じた。

経歴

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兵庫県神戸市生まれ[1]。県立神戸第一中学校(現・兵庫県立神戸高等学校[1]第六高等学校[1]を経て、1927年東京帝国大学文学部国文科卒業[1][2]。同年、府立第六中学校(現・都立新宿高校)の講師となる[1]1929年智山専門学校教授[1]1930年東京音楽学校東京女子大学兼任講師[1]1931年、師である藤村作の娘美耶子(近藤宮子)と結婚。1932年、思想問題により東京音楽学校講師を解任される[1]1933年、法政大学および日本体育専門学校(現・日本体育大学)講師[1]1934年、法政大学教授に就任[1]。法政大学国文学会機関誌『国文学誌要』を創刊[1]

歴史社会学派として左翼的論陣を張るが、1944年治安維持法違反で検挙される[1]。翌年の終戦直後に釈放され、法大教授に復帰する[1]。1946年日本文学協会を組織し[1]1950年に同会中央委員長となる[1]1949年日本学術会議第一期会員となる[1]1960年、「日本文学原論」により法政大学から文学博士学位を授与される[3]1966年、法政大在任のまま、新設の和光大学教授・人文学部文学科長を兼ねる[1]1967年に法大を辞職[1]、名誉教授[1]1976年に和光大を退職[1]、同年4月30日死去[1]。墓所は多磨霊園(21-2-8)

小田切秀雄は弟子に当たる[要出典]

著書

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単著

共編著

校註

記念論集

作詞

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 「近藤忠義教授略年譜」『人文学部紀要』第11巻、和光大学、1976年、125-130頁。 
  2. ^ 東京帝国大学一覧 従大正15年至昭和2年』東京帝国大学、1927年、529頁。 
  3. ^ 書誌事項(CiNii Dissertations)”. 国立情報学研究所. 2018年8月26日閲覧。