コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

近藤和美 (登山家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
近藤 和美
(こんどう かずよし)
生誕 (1941-11-22) 1941年11月22日(83歳)
愛知県名古屋市
国籍 日本の旗 日本
職業 山岳ガイド
著名な実績 8000メートル峰9座登頂
受賞 スノーレオパード賞(1989)[1]
テンプレートを表示

近藤 和美(こんどう かずよし、1941年11月22日 - )は日本登山家

概要

[編集]

1941年11月22日、愛知県名古屋市に生まれる。17歳で上京就職、1976年に17年間勤めた会社を退職。日本勤労者山岳連盟で「山と仲間」編集長を務めたのち、1984年よりフリーランサーとなり、山岳雑誌、山岳書籍の編集に従事、1987年登山ガイドとして独立。山と高原地図(昭文社)「谷川岳」の調査執筆を長年請け負った。

1972年31歳より海外登山をはじめ、42歳で7000m峰初登頂、1989年旧ソ連邦に属する7,000m峰5峰(イスモイルソモニ,ポベーダ,レーニン,ハンテングリ,コルジェネフスカ)を完登した者に贈られるスノーレオパード賞を獲得した[1]

1992年50歳で8000m峰初登頂(ダウラギリ)、その後も8000m峰に挑戦し続け、2011年69歳でローツェに登頂し、8000m峰9座に登頂(うち5座無酸素登頂)した。たいへん遅咲きの登山家である。8000メートル峰9座登頂は、名塚秀二田辺治山田昇と共に、全14座達成の竹内洋岳に次ぐ日本人2位の記録[2][3]

日本勤労者山岳連盟海外委員、日本ヒマラヤ協会会員、日本山岳協会国際部海外常任委員、パミール中央アジア研究会理事。

エピソード

[編集]

1989年8月、近藤和美を含む日本勤労者山岳連盟隊はハン・テングリへ遠征を行っていた。この遠征は高所登山の経験者養成の目的も兼ねていた。参加者の1人の北沢真一は講師役として、ハン・テングリを数度登頂していたが、8月14日、下山中に滑落死してしまう。翌年、ハン・テングリの6,400m付近に慰霊碑が設置された。『世界の名峰グレートサミッツ』「ハン・テングリ」の回の制作に携わっていた貫田宗男がこの慰霊碑を知り、近藤和美に取材を行った。この慰霊碑は平出和也によって撮影され、北沢真一のエピソードと共に、2013年1月に放映された番組において取り上げられた[4]

経歴

[編集]

著書

[編集]

関連項目

[編集]

脚注・出典

[編集]
  1. ^ a b russianclimb.com. “SNOW LEOPARDS (SNEZHNY BARS)”. 2016年6月21日閲覧。
  2. ^ 竹内洋岳さん、日本人初の8000メートル14座制覇へ出発(スポーツ報知)[リンク切れ]
  3. ^ 日本人初の快挙、8000m峰14座登頂 竹内洋岳、日本経済新聞 2012年5月26日
  4. ^ 野口信彦. “シルクロード日誌 2012.12.23 Sunday”. 2016年6月21日閲覧。
  5. ^ 信濃毎日新聞. “ヒマラヤ未踏峰ナンパイゴスム”. 2016年6月21日閲覧。
  6. ^ the HIMALAYAN DATABASE. “Ascents-Spring2009_Manaslu”. 2013年10月20日閲覧。
  7. ^ 8000ers.com. “New Age Record on Shisha Pangma confirmed”. 2013年10月20日閲覧。
  8. ^ the HIMALAYAN DATABASE. “Ascents-Spring2011_Lhotse”. 2013年10月20日閲覧。

外部リンク

[編集]