辻井康一
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つじい やすかず 辻井 康一 | |
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生年月日 | 1932年4月5日(92歳) |
出生地 | 日本・大阪府中河内郡孔舎衙村(現在の同府東大阪市日下町) |
国籍 | 日本 |
職業 | 映画監督 |
ジャンル | 現代劇、テレビ映画 |
活動期間 | 1958年 - |
主な作品 | |
『スキー場は戦場ではない』 |
辻井 康一(つじい やすかず[1]、1932年4月5日 - )は、日本の映画監督である。宝塚映画製作所(現在の宝塚映像)の社員監督として、テレビ映画をおもに撮ったことで知られる[2]。
人物・来歴
[編集]1932年(昭和7年)4月5日、大阪府中河内郡孔舎衙村(くさかむら、現在の同府東大阪市日下町)に生まれる[1][2]。
1956年(昭和31年)、東京の早稲田大学法学部を卒業、関西に戻り、26歳になる1958年(昭和33年)、宝塚映画製作所に入社、久松静児、岡本喜八両監督に師事した[1]。
1968年(昭和43年)、助監督経験を積み重ね、36歳のときに、のちにスキーヤーのバイブルと呼ばれる教育映画『スキー場は戦場ではない』で監督としてデビューした[1]。その後、よみうりテレビから宝塚映画が受注するテレビ映画『マキちゃん日記』等を監督する。1972年(昭和47年)からは、関西テレビの「阪急ドラマシリーズ」を多く手がけた。また、同社が熊井啓を監督に劇場用映画『お吟さま』を製作した際には、監督補をつとめ、同作は1978年(昭和53年)6月3日に公開された。
1983年(昭和58年)9月、51歳のとき、宝塚映画の経営不振による解散の際、新会社「宝塚映像」に残らず、フリーランスの映画監督となった[1]。日本映画監督協会会員である[1]。
おもなフィルモグラフィ
[編集]- 37階の男 (テレビ映画、宝塚映画、1968年7月28日 - 同年12月29日) - チーフ助監督
- スキー場は戦場ではない (教育映画、宝塚映画、1968年) - 監督デビュー作
- プロファイター (テレビ映画、宝塚映画、1969年1月5日 - 同年3月30日)- チーフ助監督
- マキちゃん日記 (テレビ映画、宝塚映画、1969年10月7日 - 1970年10月11日)
- 阪急ドラマシリーズ 花嫁とおばあちゃん (テレビ映画、宝塚映画、1972年)
- 阪急ドラマシリーズ 結婚許しません (テレビ映画、宝塚映画、1973年4月5日 - 同年6月28日)
- 阪急ドラマシリーズ 太陽が欲しい (テレビ映画、宝塚映画、1973年10月4日 - 同年12月27日)
- 阪急ドラマシリーズ せなかあわせ (テレビ映画、宝塚映画、1974年7月4日 - 同年9月26日)
- 阪急ドラマシリーズ あこがれ雲 (テレビ映画、宝塚映画、1975年1月 - 同年3月27日)
- 阪急ドラマシリーズ 河原町東入ル (テレビ映画、宝塚映画、1976年10月7日 - 1977年3月31日)
- お吟さま (監督熊井啓、宝塚映画、1978年6月3日) - 監督補
- 阪急ドラマシリーズ いらっしゃいませ! (テレビ映画、宝塚映画、1980年4月3日 - 同年9月25日)
- マリーの発見 (1980年)
- 七色のファンタジー (1985年)
- 王女ミドリの冒険 (1987年)
- 大阪パチンコ物語 浪花の勝負師 (ビデオ映画、ケイエスエス、1992年8月28日)
- 大阪大空襲 (ドキュメンタリー映画)
- 醤油物語 (記録映画)