赫連子悦
赫連 子悦(かくれん しえつ、501年 - 573年)は、北魏末から北斉にかけての官僚・政治家。字は士欣、または士忻[1][2][3][4]。
経歴
[編集]征南府長史を初任とした[5]。528年(永安元年)、軍功により済州別駕となった[1]。高歓の起兵後に、侯景が爾朱氏の下で行済州事となったが、子悦が高歓につくよう侯景に勧めると、侯景はその勧めに従って高歓の下についた[1][6]。子悦は征虜将軍・西南道行台郎中となり、東南道行台右丞に転じた。安東将軍・定州長史に任じられた[5]。
子悦は林慮郡太守として出向した。高澄が晋陽におもむく途中に林慮郡に立ち寄り、不便なところを訊ねると、子悦は「臨水と武安の2県は郡治から遠く、山嶺が幾重にも連なっていて、交通がきわめて困難です。もし東の魏郡に属していれば、土地も平坦で道も近いのですが」と答えた。高澄は笑って「卿は民の便益を知るだけで、統治の根幹を損ねることは考えないのか」といった。子悦は「民の苦しみを言上するのは、私の遠慮するところではありません」と答えた。高澄は「卿の有能はこのようなところだ。たいへんよろしい」と言った。子悦の進言は取り上げられて施行された[7][2]。
郡での任期が満了すると、征西将軍・臨漳県令となった[5]。北斉の天保年間に陽州刺史となった。宜陽の地は西魏との国境に近く、城門を夕方早く閉ざし朝は遅く開けるので、農作業の障害になっていた。子悦が赴任してくると、城門の開閉時間を改めた。召還されて将作大匠となり、車騎大将軍の位を加えられ、廷尉卿に任じられた。南青州刺史として出向し、召還されて御史中丞となった。後に鄭州刺史に任じられた。ときに黄河の氾濫のために、民衆の多くは避難していた。子悦が民衆の救恤につとめたため、戸口は増加し、その統治は天下で最上のものとされた。入朝して都官尚書となったが、鄭州の馬子韶・崔孝政ら800人あまりが頌徳碑を立てるよう請願すると、勅命により許された。開府の位を加えられ、行北豫州事を経て、吏部尚書を兼ねた。子悦は学問がなく風儀にも欠けていたが、官にあっては身ぎれいに勤務して自らを守った[8][9]。571年(武平2年)、太常卿に任じられた。10月、太常卿のまま使持節・侍中となり、北周の使者を接待した[5]。11月、北周に使者として派遣された[10][11][12]。573年(武平4年)8月24日、死去した。享年は73。使持節・都督晋建二州諸軍事・晋州刺史・尚書左僕射の位を追贈された[13]。
家族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c 北斉書 1972, p. 529.
- ^ a b 北史 1974, p. 2009.
- ^ a b c d 趙 2008, p. 461.
- ^ 『北斉書』および『北史』の赫連子悦伝は字を士欣とし、墓誌は字を士忻とする。
- ^ a b c d 趙 2008, p. 462.
- ^ 北史 1974, p. 2011.
- ^ 北斉書 1972, pp. 529–530.
- ^ 北斉書 1972, p. 530.
- ^ 北史 1974, pp. 2009–2010.
- ^ 氣賀澤 2021, p. 132.
- ^ 北斉書 1972, p. 105.
- ^ 北史 1974, p. 293.
- ^ 趙 2008, p. 463.
- ^ 趙 2008, p. 421.
- ^ 北史 1974, p. 2010.
伝記資料
[編集]参考文献
[編集]- 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6。
- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。
- 趙超『漢魏南北朝墓誌彙編』天津古籍出版社、2008年。ISBN 978-7-80696-503-0。