赤鹿理
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赤鹿 理 | |
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生誕 |
1888年7月4日 日本 兵庫県 |
死没 | 1958年8月15日(70歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1910年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
赤鹿 理(あかしか ただし、1888年(明治21年)7月4日[1] - 1958年(昭和33年)8月15日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]1888年(明治21年)に兵庫県で生まれた[1]。陸軍士官学校第22期卒業[1]。1937年(昭和12年)1月7日に陸軍士官学校学生隊長に就任し[2]、3月1日に陸軍歩兵大佐に進級した[2]。8月2日に陸軍予科士官学校学生隊長に転じ[2]、11月24日には歩兵第48連隊長に就任した[2]。
1939年(昭和14年)8月1日に陸軍少将進級と同時に第15歩兵団長(第13軍・第15師団)に着任し日中戦争に出動[1][3]。南京警備のため[1]、蕪湖に駐屯し、治安維持に注力した[1]。1941年(昭和16年)11月に独立混成第13旅団長(第13軍)に転じ[1]、新四軍を相手とする戦闘で苦戦した[1]。1942年(昭和17年)8月17日に陸軍中将に進級し[3]、第13師団長(第11軍)に親補された[1]。1945年(昭和20年)1月20日には第4国境守備隊を基に編成された第122師団長(関東軍・第1方面軍)に親補された[1]。
1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。