赤田氏
赤田氏 | |
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閂 | |
本姓 | 嵯峨源氏渡辺氏流 |
家祖 | 赤田等 |
種別 | 武家 |
出身地 | 越後国刈羽郡赤田村 |
主な根拠地 |
越後国 近江国 |
支流、分家 |
近江赤田氏(武家) 真那井渡辺氏(豊後渡辺氏)?(武家) 草野谷赤田氏(武家) 飛騨高山赤田氏(武家) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
家系は嵯峨源氏渡辺氏の祖渡辺綱の次男筒井久の子孫である兵衛尉・赤田等を祖とする氏族。
もとは越後国赤田城を拠点としていたが、南北朝時代の延文5年(1360年)に赤田源太告(等の五男)の代に、かつて同族の瓜生保に呼応して南朝方となったために、北朝方の関東管領で、越後守護の上杉憲顕配下の越後斎藤氏に攻められ、越後赤田氏は滅亡することになる(以降の赤田城は越後斎藤氏の居城となる)。
記録上の最後は、渡辺信が幼年の時に越後赤田氏に養育を受けた後、越前福井へ行くのが貞治元年(1362年)であり、166年間同地赤田保の地頭職を継承していたことになる。
概略
[編集]赤田渡辺氏は建久七年(1196年)に渡辺了が越後国刈羽郡赤田村の地頭職に補任され、了の孫・渡辺等が赤田兵衛尉を称したのが赤田氏の始めである(一説に奥州藤原氏の門葉である赤田次郎を祖とする説もある)。 等には系図上に六人の男がおり、三男・納の子孫に真那井渡辺氏、四男・備の系統に近江赤田氏が出ており、五男・告が赤田保の地頭職を相続している。
近江赤田氏
赤田等の四男・赤田備が佐々木道誉に仕えて近江へ移住したのが近江赤田氏の始めである。また『多賀町史 上巻』によると、赤田備の子・栄の時にはすでに犬上郡曾我村へ移住しており、その後百年余り赤田隆に至るまで同地に居を構えたようであるが、越後から近江へ移った正確な時期は不明である。(資料によっては等の六代孫にあたる赤田肥後(前)守源高の代に曾我へ移住したとするものもある。)近江赤田氏は代々近江国守護であった佐々木氏の幕下に属し江陽の旗頭として、六角氏やその分流である京極氏に仕えることとなる。
また、同誌によれば、「永正年間になると、赤田隆は家臣を引き連れ曾我の地を去り、現豊郷町の八町城へ移っていった」[1]と記載があり、八町城主初代として犬上郡の一角に勢力を張ったようである。また、隆は天文元年、61歳の時に嫡子赤田興に家督を譲り出家し、同地に現曹洞宗の寺院[2]である常禅寺を建立したと伝えられ、常禅寺境内には「赤田隼人正頌徳碑」や「赤田高公の墓」等が現存する。
16世紀中頃、京極氏の家臣であった江北の浅井氏が勢力を拡大してくると、赤田信濃守興はその傘下に就き、永禄の始めに浅井氏から草野谷の領地を与えられたという。また、永禄ニ年(1559年)、高野瀬秀隆が六角方から浅井方へ離反した際には、激怒した義賢が肥田城へ水攻めを行うが、近隣の城に居住する浅井方の赤田信濃守や川瀬壱岐守・高宮三河守らの救援や、折からの降雨もあり水攻めは失敗に終わり、六角軍は退却することとなる。翌年には戦の延長として野良田の戦いが勃発する。
永禄九年(1566年)7月29日、浅井氏と六角氏の間で蒲生野合戦が起こった際には、八目に敗走してきた浅井方の武将・磯野員昌を八町城に匿うが、九月に入り城内の者が六角家臣・高野瀬秀澄に内通し城内に放火する[3]。これを受けて浅井長政も参戦することとなり、高野瀬氏の居城・肥田城から八町城にかけての一帯で激しい戦いが展開する。この戦で高野瀬秀澄や、六角本本隊から派遣されていた三雲賢持らが戦死し六角方は敗戦した。なお、この際に嶋若狭守へ宛てられた赤田興の書状が現存している。
元亀元年に起こった姉川の戦いでは、興の子・姓(信光とも)は浅井側の第一陣として活躍し、織田方の先鋒を務めた坂井政尚の甥・坂井十兵衛を討ち取るなどの戦果を挙げた。浅井氏が織田方に滅ぼされた後に赤田堅は織田家重臣の丹羽長秀に仕え、近江衆に加えられて長秀の娘・決光院を正室に迎えた。また、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると秀吉に仕官することになるが、その後間もなく死去したとされる。
江戸時代後期には飛騨高山赤田氏から館柳湾らと親交を持った赤田臥牛やその子・章斎、孫・誠軒と三代に渡って漢学者を輩出している。
系譜
[編集]凡例 実線は実子、点線は養子、太字は当主、□は名不詳。 ※ 著名な事蹟がない人物、傍系の人物については掲載されていないこともある。
系譜
[編集]渡辺綱 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
筒井久[4] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
渡辺安 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
渡辺伝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
渡辺親[5] | 渡辺調[5] | 渡辺満 | 渡辺重 | 渡辺房 | 渡辺教 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
渡辺定[6] | 渡辺藩 | 渡辺潘 | 渡辺継 | 渡辺明 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
渡辺了 | 渡辺翀 | 渡辺進 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
渡辺恒 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
渡辺有 | 赤田等 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
赤田任 | 赤田紀 | 赤田納 | 赤田備 | 赤田告 | 赤田長 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
渡辺応 | 近江赤田氏 | 赤田語 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
真那井渡辺氏 (豊後渡辺氏)? | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 近江赤田氏
赤田備 | |||||||||||||||||||||||||
赤田栄 | 赤田向 | ||||||||||||||||||||||||
赤田直 | |||||||||||||||||||||||||
赤田高 | 赤田成 | ||||||||||||||||||||||||
赤田衒 | |||||||||||||||||||||||||
赤田滋 | |||||||||||||||||||||||||
赤田輝 | |||||||||||||||||||||||||
赤田隆 | |||||||||||||||||||||||||
赤田興 | |||||||||||||||||||||||||
赤田姓 | 赤田盛秀 | ||||||||||||||||||||||||
赤田堅 | 赤田悟 | ||||||||||||||||||||||||
赤田虎之助 | 赤田勘兵衛[7] | 飛騨高山赤田氏 | |||||||||||||||||||||||
草野谷赤田氏 | |||||||||||||||||||||||||
一族・家臣
[編集]・『多賀町史』
赤田氏の家臣として夏原氏・伊藤氏の名がみえ、両氏は八町に移る以前の曾我時代からの家臣と考えらえる。また、移住の際には夏原氏の中から曾我の新領主・久徳氏に従ったものもいたという。
・『豊郷村史』
赤田氏の一族として、赤田・村岸・伊藤・成宮・島瀬・加藤・野津・丸橋・田部・赤塚・夏原・藤野・西山などが挙げられている。
また、元亀元年(1560年)六月の文書[8]によると、「佐和山籠城戦の時、織田信長と浅井長政との合戦の時、この地方の若者どもが赤田源五・赤田隼人佐に従って武功をたてたかどで赤田家から「名字御免」の褒賞にあずかった。」とあり、名字御免の連中として以下の人物の名が確認できる。
・伊藤 政兵衛兄弟 吉次 助右衛門
・田部 亦市 弥介 弥左衛門
・西山 五郎右衛門
・成宮 覚内
・村岸 才蔵
・八町常禅寺記録
赤田氏の家臣として加藤一族の名が多くみられ、常禅寺開基として加藤伊予守の記録が残る。
伊藤氏
[編集]伊藤忠商事・丸紅という2つの大手総合商社を創業し、多角的経営によって伊藤忠財閥を形成した初代伊藤忠兵衛の生家である伊藤家の祖先は、赤田信濃守の次席家老であり、天正元年(1573年)に織田・浅井両氏の戦いに敗れ(小谷城の戦い)、彦根に落ち延びた時、伊藤家も同行して八目に帰農した、という旨の記載[9]がある。前述したように、赤田氏の一族として伊藤氏の名が見え[10]、伊藤忠兵衛の出た伊藤氏も同族であるとみられる。
脚注
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 頸城文化. (42) 磯貝文嶺「中世刈羽赤田城主渡辺(赤田)氏並びに斎藤氏に関する史的考察」1984年。
- 黒田惟信『東浅井郡志 巻2』滋賀県東浅井郡教育会、1927年。
- 『多賀町史 上巻』、多賀町史編さん委員会、1992年。
- 藤川助三『豊郷村史』、滋賀県豊郷村史編集委員会、1963年。
- 『丸紅前史』、丸紅株式会社、1997年。