白川資訓
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(資訓王から転送)
白川資訓 | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 天保12年11月15日[1](1841年12月27日) |
死没 | 明治39年(1906年)12月7日[1] |
改名 | 白川資訓王→白川資訓 |
主君 | 孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 白川伯王家 |
父母 | 父:白川資敬王 |
兄弟 | 資訓、芳子、資義、雅好 |
妻 | 正室:幾子(三条西季知の五女) |
子 |
資長、縫子 養子:雅好 |
白川 資訓(しらかわ すけのり)は、日本の公家、華族。子爵。
経歴
[編集]山城国京都で、右近衛権中将・資敬王の長男として誕生[1][2]。旧名・資訓王[3]。
嘉永2年3月29日(1849年4月21日)に元服し昇殿を許される[1][3]。嘉永4年8月14日(1851年9月9日)神祇伯に就任[1][3]。安政元年(1854年)内裏焼失の際に神鏡を奉遷し孝明天皇より賞された[1]。同年12月18日(1855年2月4日)侍従を兼ね、安政4年5月15日(1857年6月6日)右近衛権少将を兼ねた[1][3]。元治元年8月29日(1864年9月29日)右近衛権中将に進んだ[1][3]。
慶応4年1月17日(1868年2月10日)神祇事務科が設けられ神祇事務総督に就任[1][4]。同年2月20日(1868年3月13日)参与、神祇事務局補となる[1][4]。さらに議定、神祇事務局督を務めた[1][4]。明治2年6月1日(1869年7月9日)神祇制度の改変により神祇伯が廃止され、伯王の称号も自然消滅した[5]。同年7月8日(8月15日)神祇大副に就任[1][4]。以後、神祇官出仕、神祇大掌典、大掌典、式部寮七等出仕兼大掌典、式部寮御用掛などを歴任し宮中祭祀に携わり、1873年11月3日、式部寮御用掛を免じられ退官した[1][4]。
栄典
[編集]系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『百官履歴』上巻、修史局編、日本史籍協会、1928年。
- 『明治維新人名辞典』日本歴史学会編、吉川弘文館、1981年。
- 『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館編、吉川弘文館、1996年。
- 『公家事典』橋本政宣編、吉川弘文館、2010年。
公職 | ||
---|---|---|
先代 (新設) |
神祇大副 1869年 - 1870年 |
次代 近衛忠房 |
先代 幟仁親王 |
神祇事務局督 1868年 |
次代 鷹司輔煕 神祇官知事 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
子爵 白川家初代 1884年 - 1906年 |
次代 白川資長 |