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邦憲王妃好子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
賀陽宮妃好子から転送)
邦憲王妃 好子
賀陽宮
1922年頃

身位 王妃
敬称 殿下
出生 1865年12月7日
慶応元年10月20日
死去 (1941-11-26) 1941年11月26日(75歳没)
大日本帝国の旗 大日本帝国東京府東京市麹町区紀尾井町、賀陽宮御仮寓所
埋葬 1941年12月4日
京都府京都市東山区泉涌寺
配偶者 賀陽宮邦憲王
子女 由紀子女王
恒憲王
佐紀子女王
父親 醍醐忠順後陽成天皇7世孫)
母親 不詳
宗教 神道真言宗[1]
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邦憲王妃 好子(くにのりおうひ よしこ、1865年12月7日慶応元年10月20日[2]〉 - 1941年昭和16年〉11月26日)は、日本の皇族賀陽宮邦憲王の妃。醍醐忠順侯爵の長女で、旧名は醍醐好子後陽成天皇の男系8世孫にあたる。

生涯

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1892年(明治25年)11月26日、久邇宮家の邦憲王(当時[注釈 1])と結婚[3]。1899年(明治32年)5月23日には、実家の醍醐侯爵家で、相続トラブルによる殺人事件が発生した。

賀陽宮妃となって以降も京都御所の西に居を構え、子女らと共に生活した[4]日露戦争後には、自ら夏用帽子を製作し、傷病兵に贈った[4]。 1909年(明治42年)12月8日、邦憲王と死別。

1923年(大正12年)9月1日山階宮武彦王の妃となり、第1子を懐妊していた次女佐紀子女王とともに神奈川県鎌倉市由比ヶ浜別邸で静養していた際、関東大震災に被災する。好子妃は侍女や侍医と共に、佐紀子女王を守ろうと覆いかぶさった[5]が、好子妃のみが負傷しながらも生き残った。好子妃は瀕死の侍医を労い、「国家の損失である」と声をかけると、侍医は感謝しつつ絶命した[5]

武彦王が震災発生後2時間後に駆けつけ、妃佐紀子女王の遺骸に対面した際、胎児だけでも助からないか侍医に下問したが、その可能性は無く、好子妃は落涙して悲しんだ[5]。負傷した好子妃は、佐紀子女王の遺骸と共に鎌倉御用邸内のテントに移り、看護を受けた[6]

1924年(大正13年)10月17日山科勧修寺真言宗)で佐紀子女王の一周忌を執り行う[1]。好子妃は山階宮大妃常子及び清操院幾子[注釈 2]とともに参列し、3人は顕敬の三聚浄戒密教三昧耶戒を受け、有髪の尼僧となった上、受明灌頂会に入壇して仏門への帰依を誓った[1]。また佐紀子女王の遺品の着物(和服)から和幡6旗を調製し、山階宮家から同寺に寄進した[1]。好子妃は和幡に触れて「綺麗に出来上がったこと」と涙ぐみ、常子大妃と共に佐紀子女王の生前の姿を回想した[1]

1938年(昭和13年)頃より、老衰のため静養していたところ、1941年(昭和16年)11月24日に嘔吐・悪寒・発熱等により急性腎盂腎炎と診断される[7]。11月26日午前5時に胃出血により重体となり、同日午前6時30分、紀尾井町の賀陽宮御仮寓所で薨去した[7][8]

12月3日に葬場の儀が豊島岡墓地で執り行われた後、翌12月4日に墓所の儀が泉涌寺で執り行われた[9]

栄典

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参考文献

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  • 中村秋人『名媛と筆蹟』博文館、1909年12月。全国書誌番号:40071861 
  • 飯塚哲英編『大震災の哀話と美譚』金の鳥社、1923年。全国書誌番号:42017215 
  • 宇治冬子「故山階宮佐紀子女王殿下御一周忌と佛門に入らせし兩大妃殿下」『技藝』第1巻第10号、技藝社、1924年12月、24-25頁、全国書誌番号:00004786 NDLJP:1471695/28
  • 関東大震災情報部編『関東大震災講話資料 第1輯』関東大震災情報部、1925年。全国書誌番号:43046736 

脚注

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注釈

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  1. ^ 独立した宮家となるのは1900年(明治33年)である。
  2. ^ 貞明皇后の生母、京都在住。

出典

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  1. ^ a b c d e 宇治冬子 1924, p. 24.
  2. ^ 平成新修旧華族家系大成』上巻(霞会館、1996年)p.31
  3. ^ 明治25年宮内省告示第12号(『官報』第4471号、明治25年11月26日)(NDLJP:2946090/8
  4. ^ a b 中村 1909 p.47
  5. ^ a b c 関東大震災講話資料 1925 p.111
  6. ^ 飯塚 1923 p.20
  7. ^ a b 『官報』号外、昭和16年11月26日(NDLJP:2960966/34
  8. ^ 昭和16年宮内省告示第32号(『官報』号外、昭和16年11月26日)(NDLJP:2960966/34
  9. ^ 昭和16年宮内省告示第33号(『官報』第4471号、昭和16年12月2日)(NDLJP:2960971/2
  10. ^ 『官報』第3741号「叙任及辞令」、明治28年12月16日(NDLJP:2947017/3
  11. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」、明治39年11月3日(NDLJP:2950348
  12. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

関連項目

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