谷口安定
谷口 安定 | |
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生誕 |
1838年3月5日 越前国福井藩 |
死没 | 1896年6月2日 (58歳没) |
職業 | 教育者 |
谷口 安定(たにぐち やすさだ、天保9年2月10日〔1838年3月5日〕 - 明治29年〔1896年〕6月2日)は、越前国福井藩(現越前市)出身の教育者。名は安定。字は堯民。通称は勘策、瀬左衛門、黙三、一学など。号は蕉陰、鬼岳など。郷土の越前市では「あんていさん」として親しまれている。
経歴
[編集]福井城下の府中(現越前市)で生まれる。父の谷口馳右衛門松軒(谷口松軒)は11石2人扶持という福井藩の小役人であり、安定は長男だった。嘉永6年(1853年)から福井藩の藩校立教館で沖薊斎に学んでいたが、江戸に留学して若山勿堂に学び、22歳で塾長に推された。文久元年(1861年)に帰郷して立教館の助教授となったが、翌文久2年(1862年)には再び江戸に留学して中村敬宇や村上英俊に学んだ。慶応元年(1865年)に帰郷して立教館の教授となり[1]、家塾でも子弟を教育したが、1870年(明治3年)の武生騒動の際には福井で獄舎につながれた。
1874年(明治7年)からは大蔵省、元老院、外務省などに勤務し、1882年(明治15年)には輔仁会学舎(越前国出身学生寄宿舎)の監督、1886年(明治19年)には駒場農学校(現東京大学農学部)教授となった。1889年(明治22年)には父の谷口松軒とともに編纂した国語辞典『魁本大字類苑』が刊行された[1]。1893年(明治26年)に帰郷し、1895年(明治28年)には福井県尋常中学校(現福井県立藤島高等学校)に勤務して倫理や漢文を教えた。また進修小学校(現武生市立武生東小学校)の初代校長を務めた。
安定は性的に淡泊な人物だったが、矢放村の谷口次郎兵衛の娘をめとって3男5女を儲けた。長男は早死にしたため次男の元治郎が安定のあとを継いでいる。1896年(明治29年)6月2日、肺を患って死去した。享年59。墓所は武生町(現越前市)稲寄町の妙稲寺。谷口の遺族は武生町に蔵書約400冊を寄贈している。1909年(明治42年)には皇太子の行啓を記念して、谷口の寄贈本を核として進修図書館(現越前市立図書館)が開館した。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 武生市史編纂委員会『武生市史 資料編 人物・金石文』武生市役所、1966年
- 越前市中央図書館10周年 歴史踏まえ『知』の拠点に 福井新聞、2016年9月21日