諏訪部道順
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元文2年(1737年) |
改名 | 諏訪部八之助、八十郎、道順[1] |
別名 | 諏訪部定員(貞員[2]、さだかず[1]) |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家重、家治、家斉 |
氏族 | 清和源氏満快流諏訪部氏[1] |
父母 | 諏訪部堅雄、長山直張娘 |
兄弟 | 諏訪部道順、堅寛、為之助 |
妻 | 小野高儔娘、青山宣長娘 |
子 | 諏訪部定昭、定守、定政、定功 |
諏訪部 道順(すわべ どうじゅん)は江戸時代中期の旗本。江戸幕府御馬預。
経歴
[編集]江戸時代旗本諏訪部堅雄と先妻の子として生まれた[1]。宝暦元年(1751年)3月19日15歳で徳川家重に御目見し、宝暦3年(1753年)11月8日御馬方見習、宝暦6年(1756年)9月24日御馬預となり[1]、同日廩米150俵を賜った[2]。
宝暦10年(1760年)4月1日家重の御召御馬御預となり[2]、江戸城西ノ丸に勤めたが、宝暦11年(1761年)8月3日本丸勤務となった[1]。宝暦12年(1762年)4月相模国鎌倉、明和元年(1764年)10月武蔵野へ遠馬を命じられた[2]。明和2年(1765年)8月大川筋御成の際、馬上川渡を披露した[2]。明和3年(1766年)10月下総国真間、明和4年(1767年)4月鎌倉へ遠馬した[2]。安永2年(1773年)10月10日父が城外への御供を免じられた際、代わりに定御供を命じられた[2]。安永5年(1776年)4月徳川家治の日光社参に供奉した[1]。安永8年(1779年)8月鎌倉へ遠馬した[2]。
寛政3年(1791年)7月23日父の病気により職務を引き継ぎ、10月4日家督を継いだ[2]。寛政4年(1792年)6月13日臨時の褒賞を受けた[2]。寛政5年(1793年)7月28日預かっていた鐙を紛失し、譴責を受けた[3]。寛政6年(1794年)6月24日58歳で致仕し、道順と号した[1]。
親族
[編集]- 父:諏訪部文九郎堅雄[1]
- 母 - 長山藤右衛門直張の娘[1]。
- 継母 - 松平五郎右衛門忠敦の娘[1]。
- 弟:諏訪部伝五兵衛堅寛 - 清水重好に仕えた[1]。
- 妹 - 高木左京正雄の妻[1]。
- 妹 - 山角藤兵衛定慰の妻[1]。
- 弟:諏訪部為之助[1]
- 先妻 - 小野朝右衛門高儔の娘[1]。
- 後妻 – 青山三右衛門宣長の娘[1]。
- 子:諏訪部八之助 – 夭折[1]。
- 娘 – 村松代七歳釐の妻[1]。
- 子:諏訪部文右衛門定昭(さだあきら) - 寛政3年(1791年)12月10日御馬方の見習となり、寛政6年 (1794年)6月24日家督を継いだ[1]。
- 子:鶴八郎左衛門定守 – 鶴武左衛門正記の養子[1]。
- 子:山角万吉定政 – 山角藤兵衛定慰の養子[1]。
- 娘 – 安藤達次郎定矩の妻[1]。
- 子:諏訪部千太郎定功(さだなり)[1]