諏訪部堅雄
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 正徳3年(1713年) |
死没 | 寛政3年7月24日(1791年8月23日) |
改名 | 諏訪部為之助、八十郎、文九郎[1] |
戒名 | 日洞 |
墓所 | 江戸下谷法養寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗、家重、家治、家斉 |
氏族 | 清和源氏満快流諏訪部氏[1] |
父母 | 諏訪部定軌、定堅娘 |
兄弟 | 諏訪部堅雄、定年 |
妻 | 長山直張娘、松平忠敦娘 |
子 | 諏訪部道順、堅寛 |
諏訪部 堅雄(すわべ かたお[1])は江戸時代中期の旗本。江戸幕府御召の御馬預。
経歴
[編集]江戸幕府旗本諏訪部定軌の子として生まれた[1]。享保10年(1725年)3月28日13歳で初めて徳川吉宗に御目見し、享保13年(1728年)3月5日父の見習となり[1]、享保16年(1731年)4月3日廩米150俵を賜った[2]。元文3年(1738年)2月9日、馬預・馬方に病人が続出する中で職務に勉励したとして金2枚を賜った[2]。元文5年(1740年)閏7月6日吉宗御成の際に先馬として渡河を命じられ、金2枚を賜った[2]。
延享2年(1745年)9月1日西ノ丸御召の御馬預となった[1]。寛延3年(1750年)8月26日家督を継いで本丸に出仕したが、引き続き西ノ丸に兼務して[1]吉宗の御召御馬御預を務めた[2]。宝暦7年(1757年)10月12日万次郎の馬稽古に当たって手綱を任された[2]。明和3年(1766年)10月20日下総国真間への遠馬を命じられた[2]。安永2年(1773年)10月10日江戸城外への御供を免じられた[2]。安永5年(1776年)4月徳川家治の日光社参に供奉した[1]。安永7年(1778年)12月18日両番格となった[1]。
寛政3年(1791年)7月23日高齢のため退職となり、金2枚を賜った[1]。24日79歳で死去し[1]、下谷法養寺に葬られた[2]。法名は日洞[1]。
親族
[編集]- 父:諏訪部文右衛門定軌 - 諏訪部彦兵衛定直の次男、文九郎定堅の養子[1]。
- 母 - 諏訪部定堅の娘[1]。
- 妹 - 朝比奈弥太郎泰輝の妻[1]。
- 弟:諏訪部三之助定年[1]
- 妹[1]
- 先妻 - 長山藤右衛門直張の娘[1]。
- 後妻 - 松平五郎右衛門忠敦の娘[1]。
- 子:諏訪部道順(八十郎定員)[1]
- 子:諏訪部伝五兵衛堅寛 - 清水徳川家の家臣[1]。
- 娘 - 高木左京正雄の妻[1]。
- 娘 - 山角藤兵衛定慰の妻[1]。
- 子:諏訪部為之助[1]